■掛布雅之“31”の重圧

 一方、周囲の期待の大きさに、本人が押し潰されてしまうパターンもある。

 その顕著な例が、小池拒否事件の翌91年。初出場・初優勝で夏の甲子園を沸かせた大阪桐蔭の萩原誠だ。

 同じ阪神のドラ1でもある前出の藪氏が振り返る。

「彼は2年先に入っていたけど、年齢は大卒社会人の自分より5歳下。傍目から見ても、与えられた掛布(雅之)さんの“31”の重圧に苦しんでいるのは分かったよ。

 背番号で野球をやるわけじゃないのに、その“呪縛”みたいなものに囚われる。チームが暗黒時代だったし、かかる期待が必要以上に大きかったのもあったしね」

■“大化け”した藤川球児

 その阪神でつながった首の皮一枚から“大化け”したのが、98年の藤川球児だ。

 2003年のリーグ制覇時は蚊帳の外。それどころか、整理対象リストにすら名前が挙がっていたという。

「当時、2軍監督だった岡田さんの“もうちょい見たれや”がなかったら、その後の彼はおそらくない。彼に限らず、プロで成功できるか否かは、多分に運の要素もあるんだよね」(藪氏)

■ハンカチ王子とマー君の違い

 他方、甲子園のスターでもあった愛甲氏が「最も惜しい」と挙げるのが“ハンカチ王子”こと斎藤佑樹

 早実から直接のプロ入りを決断していれば、「あそこまで伸び悩むことはなかった」と、藪氏は言う。

「誤解を恐れずに言えば、大学の4年間で、いろんな意味でラクを覚えた。それに尽きるんじゃないかな。

 高校時代はほぼ互角だった田中(将大)と、あれだけの差がついたのは、結局のところ、高卒1年目からプロで揉まれ続けた田中との“場数の違い”でもあるからね」(前同)

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