■フィリピンのコロナ事情

 今春、早稲田大学に入学予定だった女子選手もそのひとり。当初の予定では月井と一緒に日本に来る予定だったが、その約束は果たせずにいる。

「その子の家からフィリピンの最新情報を一番うかがっています。彼女は自宅で練習を続けながら、勉強も続けている」

 フィリピンのコロナの状況は深刻。ある米国の大学の集計によると、8月上旬の時点で死者は2104名。3月中旬から5月まではロックダウンが施行され、国民は長期の外出禁止令の中での生活を余儀なくされた。

「日本人のいうロックダウンは自粛という意味かもしれないけど、フィリピンのそれは完全なロックダウンを指します」

 6月からは緩和策が進められてきたが、感染者が再び増大したことで、8月4日からマニラと周辺の4州では2週間の外出禁止が出された。その期間中、対象区域の住民は不可欠な買い物と必要最小限の運動のための外出以外は家にとどまらなくてはならない。

「現地の代表チームとはSNSやZoomを使って連絡をとりあっています。たまにではあるけど、一緒に同じ練習メニューで体を動かすこともあります」

 先日、スケジュール帳を開いたら7月のページに記された『オリンピックゲームス』という文字に目が止まり、コロナ禍がなければ東京オリンピックが開催されていたことを実感した。月井はまだオリンピック出場の権利を持っているわけではない。今年6月にパリで行われる予定だった最終選考会に出場して出場切符を手にとろうと努力していたのだ。「そもそも、私は可能性という言葉を気にしたことがない(微笑)。可能性はあるものではなく、作るものではないですか?」

 月井はケガをしていた空白の5年間とコロナの時代を少しだけ重ね合わせる。

「他の選手と比べたら、ケガをしている時間が長かったので、手さぐりの状態には変に慣れている。私としたら病院にいないで、走って動けるだけでもましなんですよ」

 いつフィリピンに戻れるかも、いつから国際大会が再開されるかもまだわかっていない。毎日練習だけをしていたら、悲劇のヒロインっぽい気持ちになりがちな自分を発見したり、予選のことを考えたり、悶々とする気持ちがあることも否定しない。

 その一方で社会全体を見渡したら、もしかしたらオリンピックどころではないのではないのかと疑問を投げかける自分もいる。

「スポーツが大事なのか、それとも命が大事なのか。いまはできるなら東京オリンピックをやってほしいと願いつつ、自分には何ができるのかということを考えたい」

 キュートなフィリピン代表の正拳は何を突くのか。

(取材・文=布施鋼治)

月井隼南
月井隼南(つきい じゅんな)
1991年9月30日、フィリピン生まれ。空手家。空手師範の日本人の父とフィリピン人の母を持つ。幼少期より数々の大会で活躍するも、学生時代はケガに悩まされる。ケガからの復帰後、2017年に単身フィリピンへ移住。来年に延期された東京オリンピックで正式種目になった空手で、フィリピン代表の一員として出場を目指す。
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布施 鋼治(ふせ こうじ)
1963年北海道生まれ。スポーツライター。レスリング、ムエタイなど格闘技全般を中心に執筆。最近は柔道、空手、テコンドーも積極的に取材。2008年に『吉田沙保里119連勝の方程式』(新潮社)でミズノ第19回スポーツライター賞優秀賞を受賞。他に『なぜ日本の女子レスリングは強くなったのか 吉田沙保里と伊調馨』(双葉社)など。2019年より『格闘王誕生! ONE Championship』(テレビ東京)の解説を務めている。
https://www.facebook.com/koji.fuse.7

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