■北条早雲に攻められて三浦半島まで逃れた!?

 だが、話はここで終わらない。茶々丸は実は、その明応二年にも死亡せず、伊豆から逃亡して生き長らえたというのだ。

 たとえば、『公方両将記』によれば、茶々丸は早雲らに攻められて三浦半島に逃れ、地元の有力な国衆だった三浦一族を頼ったとされる。

 そして、翌明応三年(1494)九月、相模の扇谷上杉定正や駿河の今川氏親の加勢を得た早雲に攻め込まれて、ここで自害して果てたという。

 また、より正確な史料である『王代記』は、彼が自害したのは明応七年(1498)と記述。

 これが確かなら、堀越公方は通説の延徳三年から七年間も寿命を長らえたことになる。

 いったい、はたして、どれが本当なのか。

 その鍵は当時、扇谷上杉氏と山内上杉氏が武蔵などで覇権を争う長享の乱の最中、定正が早雲に加担した点だろう。

 その彼と敵対していた山内上杉顕定が茶々丸を擁し、甲斐の武田の内訌がここに絡んでいたとする事実関係もあり、武蔵や甲斐などで堀越公方を支援する勢力があったことは確か。

 よって、堀越公方の滅亡時期は「明応七年」が正解ということになるのではないか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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