■二人が悪女との根拠はいずれも『太平記』!
一方の廉子が政治の表舞台に登場したのが主にこの頃だったことを考えれば、正確には中宮の死に伴い、天皇の寵愛を引き継いだと見るべきではないだろうか。
となると、廉子が後醍醐の寵愛を妻から奪い取ったとは言い難い。
ただ、彼女の場合、傾城と形容されても不思議ではない事件に関与した疑いがある。
廉子は後醍醐天皇との間に恒良親王、成良親王、義良親王(のちの後村上天皇)の三皇子をもうけ、彼らに後を継がせるには異母兄である護もり良よし親王が邪魔な存在だった。
結果、護良親王をライバルと見ていた足利尊氏と彼女の利害が一致し、後醍醐天皇は二人の讒言を信じ、護良親王は失脚。
その後、幽閉先の鎌倉で尊氏の弟である直義に殺害された。
「ミカドの御前での公卿僉せ ん議ぎ や訴訟の裁判でさえ(廉子の)口添えさえあれば、功績のない者に褒章を与え、訴訟を扱う役人も正しい側を非とした」
『太平記』は廉子の政治に対する口出しをこう辛辣に表現する。
むろん、大げさに解釈された部分もあるのだろう。
彼女が政治に関与したことは事実だが、後醍醐天皇の死後、彼女が後村上天皇を支えなければ、吉野賀名生行宮(奈良県五條市)で南朝の命運は尽きていただろう。
こう見てくると、勾当内侍は明らかに濡れ衣だと言える一方、阿野廉子については傾城の悪女であるかどうかの判断は極めて微妙なところである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。