■山県有朋内閣誕生まで総理大臣を兼務した!

 一方、征韓論は、岩倉が一時的に太政大臣代行となって天皇の判断を仰ぐ形で収めたのだから、実美の政治手腕が疑われるのも無理はない。

 しかし、実美が懸念した通り、征韓論に敗れた形の西郷は官を辞し、のちに西南戦争(1877年)へ突き進むわけだから、その判断があながち間違っていたともいえない。

 彼は一五日の閣議後、岩倉に「今日になって考えを変じ、申し訳ない」と謝罪している。

 確かに実美には岩倉のような政治手腕はないが、自分の非を認める素直さがあり、それが「玉のような」という伊藤の評につながったのだろう。伊藤はまた、「(実美の)徳望は余人の知るところ」ともいう。

 つまり、維新後の混乱期に、癖のある太政官幹部らの上に乗っかり、その人柄によって各勢力のバランスを保つ役割を担っていたという意味で、実美は太政大臣に相応しい人物だったといえる。

 そして、明治一八年(1885)の内閣制度の発足で太政官が廃され、内大臣に転じた実美は明治二二年(1889)、また、大きな仕事をする。

 薩摩出身の黒田清隆総理大臣が任期途中で辞任を余儀なくされ、政府がその後任人事に手間取った際、天皇に内閣の組閣を命じられ、次の山県有朋(旧・長州藩士)内閣誕生まで総理大臣を兼ねたのだ。

 あくまで臨時の総理だから歴代総理に数えられていないが、彼が新政府の危機を救ったのは確かである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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