■ミゲルは棄教ではなくイエズス会を出ただけ
マルチノは当時、日本のイエズス会の中心人物として長崎で活動していたが、マカオへ追放処分となり、現地で死去した。享年は六一。マンショも禁教令が発せられた年に、布教していた小倉(北九州)から長崎へ戻り、その年に長崎で没した。享年四四と伝わる。
四人のうち、最も悲惨な最期を遂げたのがジュリアン。幕府によるキリシタン弾圧後も二〇年間、国内に潜伏し、有馬や口之津(長崎県南島原市)などで布教活動を続けたが、寛永九年(1632)、小倉で捕らえられた。翌年、長崎で四日間、穴吊りの刑に処せられたが、棄教を拒んで殉教した。享年六四。ちなみに、穴吊りというのは掘った穴の中にグルグル巻きにした状態で逆さに吊られる拷問のこと。
最後の一人、ミゲルは江戸時代初めに成立した『伴天連記』の記述から、四人の中で唯一、棄教した人物とされてきた。
しかし、最近の発掘調査で長崎県諫早市多良見町にある墓がミゲルのものだと確定し、一気に風向きが変わった。
というのも、墓からは男女二人の骨が発掘され、女性(ミゲルの妻)の骨周辺にはキリシタンの副葬品が埋葬されていたからだ。また、墓のある村周辺は潜伏したキリシタンが多くいたことで知られる。
このため、ミゲルは棄教したのではなく、いまではイエズス会を脱会しただけだと考えられている。脱会の理由は不明だが、イエズス会のほかに日本に進出していた修道会(フランシスコ会など)との抗争に嫌気がさしたのではなかろうか。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。