■村落同士が利害関係で戦争することもあった

 しかし、人類学者の竹倉史人氏は、縄文人の主食の一つ、オニグルミの殻の断面と「ハート型土偶」の顔の部分が酷似していることに気づき、このタイプの土偶とオニグルミの生育分布に近接性(近づきやすさを示す概念)があることを突き止めた。

 縄文人が食用の植物を栽培していた事実と重ね合わせ、こうして「土偶=植物を象った精霊像」という新説を提唱するに至った(『土偶を読む』)。

● 翡翠と墓から読み解く貧富の差

 縄文時代は前述した通り、完全に平等な社会ではなかった。

 遺跡の一部から稀に翡翠製の「玉」が発見されるからだ。翡翠の産出は新潟県の姫川流域に限られ、工房跡も確認されている。

 つまり、同じ集落の住人の中には希少品である「玉」を手に入れる層がいたことを意味する。

 また、下太田遺跡(千葉県茂原市)から多数発掘された人骨の多くは集団で埋葬されていたものの、一部の人骨は丁重に一体ずつ埋葬されており、こちらは身分差を想起させる事例として注目された。

 ただし、それはあくまで共同墓地内での差であり、後世の古墳などのように独立した存在ではない。

 よって、身分差といっても共同生活を営むうえで必要なリーダーと、その他大勢という違いではなかったろうか。

●縄文時代にも戦争はあった?

 発掘された縄文人骨の一部に斧や弓矢が原因と思われる傷跡があり、村落同士、利害関係から戦うこともあったと想定される。

 しかし、殺傷痕があるのは縄文人骨(約六〇〇〇体)のうち、一五とごくわずか(勅使河原彰著『縄文時代を知るための110問題』)。戦争はあっても、おおむね平和な時代だったといえる。

 ところが、弥生時代になって明確な身分差が生じ、競争社会になっていくと、戦争が紛争解決手段として用いられるようになるのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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