鬼神を操った飛鳥時代の呪術師!?“修験道の祖”役小角の超能力伝説の画像
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 飛鳥時代に役行者という超能力者がいた。役優婆塞とも呼ばれ、「小角」という名も伝わっている(以下、小角と表記する)。

 まずは、戦国時代に書かれたとされる『役行者本記』から彼の生涯を要約してみよう。

 小角は大和国葛城地方を本拠とした古代の豪族・賀茂氏の一族で、舒明天皇六年(634)一月一日に葛上郡茅原郷(奈良県御ご所せ市)で生まれた。

 一三歳の頃より葛城山中で修行し、箕面山(大阪府)や笠置山(京都府)、さらには大峰山(奈良県)、吉野山(同)の他、東北や関東、北陸の諸山でも足跡を残したという。

 そして、ここからは眉に唾して読んでいただきたいが、六二歳のとき、彼は地元葛城の神様である一言主神に葛城山から金峰山(吉野山)まで岩橋を架け、金剛蔵王権現に仕えるよう命じた。

 しかし、一言主神は姿が醜いという理由で命を拒み、小角はその一言主神の讒言によって伊豆大島に流されてしまう。

 小角は昼間こそ禁を守っていたが、夜になると自由に出歩いて修行していたため、ついに処刑されることになった。ところが、小角が刑吏の刀を舐めると鉛のようになって使い物にならなくなり、彼が都に帰って、そんな不思議な事象を天皇に報告したため、罪を許されたという。

 小角は自分を讒訴した一言主神を呪縛し、黒蛇に変えて葛城の谷に投じ、その後、六八歳のときに箕面で死没した。この間、彼が海を歩いて渡ることなどが書かれている。

 以上の伝記は、どこからどこまでが事実なのだろうか。もちろん、人が海を歩いて渡れるはずがないし、神様に橋を架けさせる話そのものが紛れもない嘘。まして神様を呪縛して黒蛇に変えるというのは言語道断。いったい彼は何者なのか。

 まず、小角が修験道の祖とされるところが重要。修験道というのは日本古来の山岳信仰に仏教や道教、さらには神道の教義を加えて平安時代の終わり頃に確立した宗教のこと。

 山岳修行によって呪術的な能力(病気治療、降雨、豊作などの現世利益の実現)を得ようとする修験者(山伏)たちの行動が

「道」として確立されると、彼らが理想とする修験者像が求められるようになった。

 一方、修験者は大峰山や吉野山、熊野などを霊場とし、鎌倉時代になると、それぞれの山岳ごとに規範となる優れた修験者として小角を共通の開祖と仰ぐようになった。

 そうして山岳霊場ごとの伝記が体系化され、戦国時代に前述した『役行者本記』などの教典が誕生。同書で小角が箕面から関東、北陸の諸山で修行するのは、諸山共通の祖として小角を定めていたからだ。

 つまり、一般の宗教ではまず教祖がいて、その考えが広がっていくという流れになるのに対し、修験道では逆に修験者たちが理想とする教祖像が後づけで“創られた”形だ。

 そして、江戸時代の寛政一一年(1799)、朝廷から小角に「神変大菩薩」という諡号が贈られ、画像や彫刻が数多く制作された。

 僧衣に袈裟姿で長い髭を蓄えて手に錫杖を持ち、高下駄を履いて岩に腰掛け、斧を持つ前鬼と棒を持つ後鬼を従える――こうして役小角という超能力者像が完成するのだ。

 では、彼が架空の人物なのかというと、そうではない。平安時代の初めに書かれた『日本霊異記』に登場する。ただし、同書は仏教説話集だから史実を伝えているとは考えにくく、現代の科学からは想像もできない話が描かれている。

 同書で小角は鬼を使役して葛城山と金峰山に石橋を架けさせようとし、一言主神が人に憑依して小角を文武天皇に讒言する話が出てくる。『役行者本記』の話の元ネタだ。しかも彼は伊豆大島に流されたあと、海を歩いて渡るだけではなく、赦免後、仙人となって空を飛んだことになっている。

 修験道は呪術的能力で現世利益を実現しようとする以上、その開祖は超能力者であることが望ましい。

 従って、その後の小角伝説のルーツがこの『日本霊異記』にあるのは確かだが、さらに遡ると、『続日本紀』にも彼が登場する。

 この書は、『日本書紀』に続く勅撰の歴史書。平安遷都から間もない延暦一六年(797)に完成した。

 そこに、彼が飛鳥時代の文武天皇三年(699)五月二四日、伊豆(大)島に流されたと記されている。

 掲載元が勅撰の歴史書なのだから、小角が実在の人物であるのは確かで、また、伊豆大島に配流されたのも歴史的事実と考えられる。ただし、一言主神が讒言したのではなかった。小角の能力が悪い方向へと発揮され、誰かが朝廷に百姓を幻惑していると訴え出たことになっている。

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