江戸時代の流行作家・井原西鶴に浮世草子「ゴーストライター説!」の画像
写真はイメージです

 江戸時代半ば、京や大坂で大ブームになった小説群を「浮世草子」という。巷の風俗描写をふんだんに盛り込み、娯楽性に富んだ作品の総称だ。

 その浮世草子のジャンルを切り開いたのが『好色一代男』の作者・井原西鶴。江戸時代を代表する文人でありながら、生い立ちどころか出身地さえ定まらない謎の人物でもある。

 しかも、『好色一代男』を除く作品群についてはゴーストライター説まである。

 まずは、限られた史実を拾って彼の生い立ちを追ってみよう。

 寛永一九年(1642)生まれというのも没年から遡って逆算しただけで、記録が残っているわけではない。出身地については西鶴自身が

「ふるさと難波」としているものの、実際に生まれたのは、家紋の分析などによって紀伊国中津(和歌山県日高川町)、もしくは備中国井原(岡山県井原市)といわれるようになった。いずれの場合も、その地区に井原姓の家が多い。

 父の職業も不明だ。とはいえ、彼は一五歳の頃より俳諧(後の俳句)の道に進み、二一歳でその点者(作品を優劣を判断して点をつける者)になっている。

 それだけの文化的教養を身につけることは、富裕層でなければできない。このため、祖父、もしくは父が田舎(紀州か備中)から大坂へ出て商いを始め、西鶴の時代には成功していたと考えられる。

 また、西鶴が三四歳の時に妻に先立たれ、三人の子をなしていたことは分かっており、当時、門人がそれなりにいたとしても、俳句の句集を出版してもほとんど儲けにならないため、生活は家業である商いに支えられていたと見るべきだろう。

 さらに、同時代の俳諧の点者を紹介する書物に「鑓屋町」(大阪市中央区)に住んでいたとあり、武具を商う店が多い地区だけに、家業は刀剣類を扱う店だったという説もある。

 ただし、俳諧に没頭した西鶴が家業を継いだとは考えられず、店は手代に譲り、創作活動に勤しんでいたようだ。

 井原がもともとの姓(平山だったという説もある)で西鶴は雅号。ただし、はじめ「鶴永」と号していたことは俳諧集の序文から明らかだ。

 ところで、彼の名が知られるようになるのは、妻を亡くした二年後の延宝五年(1677)五月。大坂生玉(大阪市天王寺区)の本覚寺で一昼夜にわたって俳句を吟じ、その数が一六〇〇句に及んだときのことだ。これを「矢数俳諧」という。

 江戸時代、京都の三十三間堂で通し矢の行事が行われたことにならったものだ。通し矢とは一昼夜の間に本堂の軒下で端から端まで矢を通し、その本数を競う競技。俳諧ではどれくらいの句を詠むかを競う。

 西鶴は妻が亡くなった際に悲しみの中で、夜明けから日暮れまで追悼のために一〇〇〇句吟じ、自分には短時間に多くの句を詠む才能(速吟という)があると気づき、挑戦したようだ。

 後に浮世草紙のジャンルを切り開く西鶴だが、最初に矢数俳諧に挑んだのも彼だといわれる。

 しかし、その記録は四か月後に破られた。そのときの句数が西鶴より二〇〇多い一八〇〇。こうなったら、今でいうギネス記録を狙うようなもの。新記録を狙う猛者が次々と現れた。

 記録は三〇〇〇句まで伸びたが、西鶴は延宝八年(1680)五月、生玉社で二回目の矢数俳諧を行い、四〇〇〇句に挑戦して成功。『好色一代男』の大ヒットで浮世草子作家となったあとの貞享元年(1684)六月、今度は住吉社(大阪市住吉区)で二万三五〇〇句という前人未到の記録を達成した。

 それでは、なぜ西鶴は俳諧師から浮世草子作家に転身したのか。『好色一代男』の刊行は四二歳になった天和二年(1682)。弟子の西吟がその跋文(あとがき)を寄せ、西鶴の家で反故になった転合書(いたずら書き)を見つけたという逸話を紹介しており、そこから、西鶴がいつの頃からか小説のネタになりそうな話をメモとして書き留めていたことが分かる。

 当時、仮名草子と呼ばれる散文がいくつか出版され、評判になっていたから、いつかネタをまとめて出版しようと考えていたのだろう。

 しかし、西吟が反故になった転合書を見つけたくらいで、出してくれる書肆 (当時の出版社)が見つからず、出版はなかなか実現しなかったようだ。

 結果、思案橋(大阪市中央区)の荒あら砥と 屋や 孫兵衛が版元になるのだが、その屋号から推測できるように彼は砥石問屋の主人だとされる。つまり、出版については素人。

 そこで版下(印刷用原稿)作りを西吟が担い、西鶴が挿絵を描いた。

 ところが、出版されるや、砕けた表現で語る斬新な話がこれまでの仮名草紙とはまるで違うと評判になって大ヒット。プロの書肆に注目され、五二歳で西鶴が亡くなるまでの一〇年間に多くの作品を残した。

  1. 1
  2. 2