●百済の国名が「日本」だったのか
(1)厩戸皇子(聖徳太子)が隋(当時の中国)の皇帝に送った国書に「日出処(ひいづるところ)」と記載した推古天皇の時代(593~628年)
(2)大化の改新のクーデター(コラム参照)を実行し、朝廷の制度が整いだした孝徳天皇の時代(645~654年)
(3)飛鳥(奈良県)から大津(滋賀県)へ遷都した天智天皇の時代(661~671年)
(4)壬申の乱(コラム参照)で天皇の天皇の時代(672~697年)より前に「日本」という国名が使われていたことになる。
しかし、その墓誌の銘文にある「日本」という意味が本当に国名を指しているのかという問題がある。墓誌には〈日本餘噍、據扶桑〉とあり、「日本の残党が扶桑に逃れてそこに拠った」という意味になる。
しかし、日本と扶桑ともに国名だとすると意味が通じなくなる。その一方で、百済を日本だとすると、「百済の残党が扶桑(日本)に逃れてそこに拠った」となって意味が通じる。
それでは、もともと百済の国名が「日本」だったのだろうか。
それもまた誤りで、ここでいう日本は「ひのもと」、すなわち太陽が昇る地域である東方全域を指す言葉だと理解され、中国の東方に位置する百済の残党が当時、扶桑と称していた日本へ逃れてきたという意味となる。
当時の我が国の国名は「扶桑」であって、日本は中国から見た東方を指す言葉に過ぎず、まだ「日本」という国名は中国や朝鮮で認識されていなかったことになる。
事実、唐が「日本」という国名を認めるのは、大宝令で国名を正式に定めた以降のことで、そのことは、遣唐使の報告によって明らかになっている。
そうなると678年当時、日本では「扶桑」という国名を用いていたと考えられることから、「日本」という国名の誕生は、その年(678年)から大宝令制定(701年)までのどこかということになろうか。
●「日本」という国名の意味
『旧唐書』によると、「国、日出づる所に近く、もって名となす」とある。また、中国では古来より日本を「倭」と称しており、「倭の名を悪(憎)み、あらためて日本と号な づく」という。中国で太陽の昇る東方を日本と呼んでいたことから、「大和」や「扶桑」より、国際的に通じる国名として「日本」を用いるようになったのではなかろうか。