■野球ノートの秘密

 まずは最初の師は、何を置いても、岩手・水沢(奥州市)の地と、そこで彼を育んできた大谷家だ。

 とりわけ、社会人野球・三菱重工横浜(現・三菱重工East)でもプレーした父・徹氏の存在をなくして、大谷翔平は語れまい。

 少年期に父子が交わしていた野球ノートにつづられた約束事が最初の教えだろう。

「ノートに書かれた“大きな声で元気よく”“キャッチボールを大事にする”“一生懸命に走る”の3つを、今もずっと大事にしていることは、大谷のプレーを観ていても伝わってきます。息子のチームのコーチだった徹さんですが、“家には熱血指導を持ち込まない”という厳格な線引きも、翔平少年にとって、心身ともに良かったと言えそうです」(スポーツライター)

 そうした少年期に受ける影響の大きさを、自らも少年野球の指導に携わる愛甲猛氏が、こう指摘する。

「親はもちろん、6歳上に兄貴(龍太氏=現トヨタ自動車東日本コーチ)がいたのも大きい。それと、やっぱり土地柄だよね。これは俺の体感だけど、東北や北陸には、高校野球でも、好きにやらせるタイプの指導者が多い。見聞きする限り、花巻東の佐々木洋監督(48)も、そういうタイプというしね」

■菊池雄星の存在

 大谷にとってのさらなる幸運は、花巻東への進学が、佐々木監督に“怪物育成”のノウハウが備わった直後だったことだ。仮に菊池雄星(32=ブルージェイズ)の存在が、もしなければ、大谷の未来も今とは大きく違っていたかもしれない。

「佐々木監督自身、“自分が育てたと言いたいところだが、彼は最初から、ああいう人間だった”と振り返っているように、大谷が伸び伸びと野球に打ち込めたのは、やはり環境のおかげ。自主性を尊重する指導者と、大リーグからもスカウトが押し寄せた身近で偉大な先輩。この二つは、高校球児だった大谷にとって、大きかったはずです」(スポーツ紙記者)

 こうした花巻東の“好きにやらせる路線”は、二刀流を提案して口説き落とした日本ハム球団にも踏襲されている。

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