趣味に埋没し武を怠ったと批判された義隆と氏真

大内義隆は長門、周防、安芸、石見、筑前、豊前の6ヶ国を領する大大名であった。活躍したのは毛利元就と同時代で、はじめ元就は義隆に属する小大名にしか過ぎなかった。

戦国の気風が蔓延するなか、領国のうち長門、周防は安定していたが、残る4ヶ国は家臣である守護代が台頭する懸念があった。家臣の戦国大名化を防ぐため義隆は領国から離して守護代を身近に置き、守護代の所領地を各国に分散するなど、領地の安定化を推進した。しかし、周辺諸国の諸勢力が戦国大名化したため、騒乱は絶えなかった。

経済的には広大な領地を持ち、なおかつ莫大な財を産む大陸との海外貿易を独占したため、西国の中では財政基盤が豊かであった。

だが、重用していた陶晴賢が反旗を翻し、義隆は討ち取られてしまう。

義隆は内政面には優れた面を見せたが、武略に関しては平凡としかいえなかった。一方文化人としては、荒廃した京から逃げてきた文人たちを手厚く庇護。戦乱で失なわれたかもしれない文化や伝統を継承する立場を取った。

ところが江戸幕府成立後は、質実剛健を武士の本文とする風潮があったため、文化を重んじていた義隆は華美惰弱に溺れた愚将という評価を受けることとなってしまったのだ。

同様に文化に溺れた惰弱な武将として、非難の対象となったのが今川氏真である。今川家は清和源氏の名族で、足利家に次ぐ家格があるといわれていた。父義元の代には駿河、遠江、三河の3ヶ国を領する大大名となったが、その義元が桶狭間合戦で討ち取られたため、氏真が家督を継承した。

しかし、氏真は酒色(色は男性方面)に溺じ、実権は老臣・三浦氏が掌握。これに家臣が反発し、家中はまとまらなかった。そうした内訌により今川家を存続させる対外政策もろくに打てず、徳川、武田、北條氏により領地は切り取られ、桶狭間以来わずか7年で滅亡してしまう。

ただし、今川氏は国は失なったものの徳川幕府成立後、高家として存続を許されている。

氏真は連歌、和歌に秀で、特に蹴鞠は名人級であった。いわば今でいうサッカー馬鹿であったのだ。居館である駿府館ではたびたび蹴鞠の会が催されていたと伝わる。静岡県民のサッカー熱が高いのは氏真の遺産であろう、多分。

先にあげた細川政元、大内義隆と比べると、その暗愚ぶりは飛び抜けている。歴史にイフはないが、桶狭間合戦に義元が勝利し天下に覇を唱えられたとしても、氏真の代に再び戦乱の世になっていた可能性が高いと考えられる。

歴史の流れとしては、織田信長が勝利したことで戦乱の世が終結に向かったともいえる。

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