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将門塚の歴史
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千代田区大手町1-2-4
現在ある首塚は、この地に京から飛んできた首が落ちた地とも、縁者が首をもらい受け、この辺りにあった観音堂のそばに埋葬した地とも伝えられている。その後、塚は荒廃し、将門の霊はその侮辱に怒り、様々な災いをもたらしたという。江戸時代の寛文期(1661~)には酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の屋敷の敷地内となる。明治5年(1872)に首洗い池とされる御手洗池とともに大蔵省中庭に残された。


祟りの伝え1
敵の子孫は、神田明神は絶対NG!
将門を討った藤原秀郷の子孫・佐野家では将門ゆかりの神田明神への参拝はもとより、前を通ることも禁じていた。神田祭の神輿が屋敷の門前を通る際には門を閉めたという。

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