今からちょうど50年前の1964年10月10日、日本国民が待ちに待った東京オリンピックが、ついに開幕した。アジア初の五輪となった東京大会には世界から史上最多(当時)の93の国と地域が参加。

15日間にわたってアスリートの熱き戦いが繰り広げられた。終戦から19年。焼け跡から復興を遂げた日本が、再び世界の仲間入りを果たしたことを国民に強く印象づける大会でもあった。

この年、五輪開催に合わせて東海道新幹線が開通。高度経済成長の波に乗る日本は、熱く燃えていた!

バレーボール金メダルリスト 宮本恵美子 「皆でひとつのボールを追いかけた」

東京五輪の最後を盛り上げたのが、閉会式の前日、10月23日に行われた女子バレーボールの決勝戦だ。

"東洋の魔女"と言われた日本代表チームは、宿敵ソ連を相手に3-0のストレート勝ちを収め、金メダルを獲得した。その中心メンバーとして活躍したのが、サウスポーのエースアタッカー、宮本(現姓・寺山)恵美子さん(77)だった。

「バレーボールは東京オリンピックで初めて正式種目に採用されたうえ"金メダル確実"と言われてましたでしょ。だから、決勝戦でソ連を破り、君が代を聞いたときはホッとした気持ちのほうが強かったですね。日本代表12人のうち、10人は日紡貝塚のチームメイトでしたが、日紡貝塚と日本代表の監督を務められた大松(だいまつ)先生と主将の河西(かさい)昌代さん (結婚後は中村姓。昨年10月3日に逝去)なくして、私たちの金メダルはありませんでした」

日紡貝塚を率いた大松博文監督(78年11月に逝去・享年57)は選手を徹底したスパルタ式トレーニングで鍛え"鬼の大松"と呼ばれた。

また"おれについてこい!"の名セリフでチームを金メダルに導いたことでも知られる。日本代表のお家芸・回転レシーブを考案したのも大松監督だった。

「会社の寮も最初は15畳の部屋に15人で寝てました。食事も私たちには卵が1個余分につくくらいで、あとは一般の社員と一緒。朝8時から午後3時半までは仕事で、それから練習をするんですが、夕食後も練習。夜中の1時、2時はザラで、ときには明け方の4時、5時ということもありました。もちろん、その日も8時出勤です。よく、あれだけキツイ練習をしたなと思いますが、大松先生は"体力に勝る外国人に勝つには練習しかない。相手が3やるなら、こっちは7やらにゃ勝てん"と言うのが口癖でした。厳しいだけでなく、先生はときどき、息抜きに選手全員を大阪に連れていってくれました。映画を観たあとに喫茶店でチョコレートパフェを食べるのが、何よりも楽しみでねぇ」

国内で無敵だった日紡貝塚は60~61年の欧州遠征で24連勝し"東洋の魔女"の異名を取る。

60年の世界選手権リオデジャネイロ大会は銀メダル、62年の世界選手権モスクワ大会では金メダルを獲得し、宮本さんはMVPに選ばれている。

「大松先生も私たちも、62年の世界選手権の優勝を花道に引退するつもりだったんです。ところが、JOCは"東京五輪まであと2年、頑張ってもらいたい"と。あとから知った話ですが、先生は選手全員の親元を訪れ"お嬢さんをあと2年、お預かりします"と挨拶して回っていた。律儀な先生らしいエピソードです」

172センチの長身で整った顔立ちの宮本さんは"元祖アイドルアスリート"でもあった。

実際、男性ファンの多さはダントツだった。

「自分で言うのもなんですが、けっこう人気はあったみたい(笑)。ファンレターももらったし、海外遠征に行くと外国の選手に声をかけられることもありました。そうそう、私が日紡貝塚でまだレギュラーになれない頃、憧れていた男性がいたんですよ。その人にデートに誘われ、寮を出て彼の自転車の荷台に腰掛けて出かけようとしたところ、偶然、後ろから河西さんが現れて"宮ちゃん、バレーとどっちが大事?"って言うんです。慌てて荷台から飛び降りちゃいました(笑)。あのとき河西さんが現れなかったら、私の人生も違っていたかも(笑)。私は試合のときに"自分が決めてやる!"と思ったことは一度もないんです。皆でひとつのボールを追いかける、それが大松先生と私たちが目指したバレーボールだったんですね」

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