『東京五輪音頭』の人気歌手 橋幸夫 「忙しかったという記憶しかない」

60年に『潮来笠』(いたこがさ)でデビュー、大ヒットさせた橋幸夫さん(71)は、64年の東京五輪開催当時、21歳。62年に吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』で、第4回日本レコード大賞を受賞するなど、ヒット曲を連発していた橋さんは、すでに押しも押されもしない歌謡界のトップスターになっていた。

「東京オリンピックの頃はものすごく忙しかったという記憶しかありません。開会式も、その他の競技もニュースで結果を知るくらいで、テレビ中継を見た記憶がないんですよ(笑)。唯一の例外は"東洋の魔女"と言われた女子バレーボールの金メダルかな。あ の試合は感動しましたね。当時は映画、舞台、テレビテレビもVTRなんてない時代だから、すべてナマ。夜行列車を乗り継いで地方公演に出かけ、その合い間に『平凡』『明星』といった芸能雑誌の取材を受けるという、そんな日々が続いてました」

"さすがは東京"と言わせたい

「62年には『東京五輪音頭』という曲も出したし、五輪と縁がないわけゃなかったんですけどね。♪オリンピックの顔と顔、という歌詞でおなじみのこの曲は、三波春夫さん、三橋美智也さんをはじめ、レコード会社各社の競作になった。じゃあ、ビクターからは僕で、ということになったんです。64年と言えば、前年にデビューした舟木(一夫)君に続いて、西郷(輝彦)君がデビューした年。これで、いわゆる"御三家"がそろったわけです。まぁ、僕のほうがデビューも早かったし、年長だったので、御三家と言われても、正直、ピンとこなかったんだけどね(笑)。

五輪の前と後では、東京の街も大きく変わりました。東京生まれの人間にとってはうれしくもあり、寂しくもあったんですが、あのとき東京が、日本がひとつになって、熱く燃えていたことは確かです。50年前のオリンピックで日本は戦後の復興ぶりを世界にアピールしたわけですが、次の五輪は経済大国になり、成熟した日本の姿を世界の人たちに見てもらうチャンス。やるからには"さすがは東京"と言われるような大会にしてもらいたいし、したいよね。僕も自分のラジオ番組『橋幸夫の地球楽団』(TBSラジオ・日曜22時~)で、おおいにPRするつもりです。個人的には、この際、都内にある電信柱をすべて地下に埋めてほしい。それくらい思いきったことをやるべきでしょう。東京の街並みは、きっと見違えるくらいキレイになりますよ。実は、2020年の東京五輪は僕のデビュー60周年の年でもあるんです。そういう節目の年に、今度こそゆっくり、オリンピックを楽しみたい。今は、そんな気持ちですね」

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