また一つ巨星がこの世から去っていった。伝説の大物役者が生前に残していった逸話の数々を誌上大公開!
「まさか高倉健さんに続いて、菅原文太さんまでもが……。たった今、ニュースで知ったばかりですが、ショックのあまり、言葉も出ません」
俳優の菅原文太さん(享年81)の訃報が伝えられた12月1日、本誌がある芸能プロ関係者に取材したところ、こんな反応が返ってきた。
「高倉健さんも菅原文太さんも、まさに昭和の大スターです。健さんの死は8日間伏せられていました。一方、文太さんの死が発表された12月1日は、すでに葬儀が済んだあとのこと。転移性肝がんによる肝不全のために都内の病院で亡くなったのは、11月28日です。3日間、文太さんの死は伏せられたわけですが、奇しくも"男の中の男"と呼ばれた大スターは、死に様も似ていますね」(前同)
しかしながら、2人の晩年の過ごし方は対照的だったようだ。
健さんが最期まで映画にこだわっていたのに対して、文太さんは2007年に膀胱がんを発症して以来、役者の世界からは遠ざかり、山梨県で農業生産法人「竜土自然農園」を発足。農業の大切さを訴えながら、平和活動にも奔走していた。
「文太さんは、"戦争だけはしちゃいかん"と、全国を飛び回って講演活動をしていました。11月1日には、沖縄県知事選で翁長雄志候補(12月10日より知事就任予定)の集会に出席、当選を大きく後押ししました。"弾はまだ一発残っとるがよ"と、代表作『仁義なき戦い』の決めゼリフで会場を沸かせていましたね」(スポーツ紙記者)
映画評論家の秋本鉄次氏は、文太さんの死を悼みながら、スターの経歴を解説する。
「よく『仁義なき戦い』が文太さんの代表作だと言われますが、『人斬り与太』が、深作欣二監督と文太さんコンビの最初の作品なんです。映画が公開された1972年は、全共闘全盛時代の直後のことですね。私を含めて、当時の若者たちは暴力なくして腐敗した大組織は破壊できないものなんだと、この映画を見て、少なからず影響されたものです」
ヤクザの組長など荒々しい役が多かった文太さんだが、実際はインテリな少年時代を送っていた。
「宮城県の仙台市生まれで、出身高校は進学校で有名な仙台一高。新聞部に所属していて、部の1年後輩である作家・井上ひさし氏の原稿をビリビリに破いた話は、同校でも伝説として語り継がれていますね」(映画ライター)
進学校でもヤンチャなエピソードを残しているのはさすがのひと言。
卒業後は早稲田大学に進学したが、芸能界に足を踏み入れたこともあり、1年で中退。新東宝で映画人生のスタートを切り、後に東映へと移籍するが、当初は大した役をもらえなかったようだ。
当時の文太さんをよく知る俳優仲間の一人である曽根晴美さんは、懐かしそうに振り返る。
「あの頃は、オレにしても文太さんにしても、金には苦労していてねえ。ギャラは安いし、仕事も少なかったからね。東映の京都撮影所に缶詰になって撮影が始まっても、旅館やホテルは、役者が自分で手配したもの。小さなホテルに泊まって、毎晩のように焼酎飲みながら、仕事の愚痴だよねえ。酒はね、あの時代、だいたい焼酎だったね」
また、つきあう仲間も文太さんらしかったという。
「それに文太さんは、山城新伍とか、渡瀬恒彦とか、松方弘樹とか、もっぱら男とばかり、つるんでいたね。男の生き方がどうしたとか、将来はこんな役者になるとか、こんな仕事やってみるぞ、とかね」(前同)
役者の道を懸命に歩む文太さんがスター街道を突っ走るキッカケとなった作品は、やはり73年から始まる『仁義なき戦い』のシリーズだ。
今からちょうど1年前、本誌は文太さんに取材しており、こんな裏話を披露してもらっている。
「今の脚本家と違って、あの頃はみんな固太りの人で、(『仁義なき~』の脚本家も)ただ机に座って書いただけではなくて、舞台になった広島のヤクザ社会に1か月くらい潜入して脚本を書き上げたんだな。脚本家自身、迫力ある人だったけど、ヤクザにひどく脅されたっていうんだから。"おまえ、何しに来たんやッ"ってね」
役者もスタッフも死に物狂いで作品作りに挑んでいたからこそ、全編が鬼気迫るシーン満載の作品になったのだろう。
75年にスタートした『トラック野郎』ではコワモテの極道から一転、電飾輝く"デコトラ"のハンドルを握るコミカルなトラックドライバーを演じ、大人気を博する。文太さんの役者人生において大きな転機となった作品と言えよう。
その『トラック野郎』で文太さんの相棒役、やもめのジョナサン役を演じた愛川欣也さんは訃報を聞いて、こんなエピソードを明かしている。
「『トラック野郎』の頃、オレはすでに酒をやめててね。文ちゃんは、よく飲んでた。もしオレが飲めたら、赤ちょうちんでもどこでも、話ができたなあと。"(つきあえないで)悪かったな"と言いたい」