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パンチ「土井さんは良くも悪くも監督の勉強をしていなかった。その点、(土井監督から引き継いだ)仰木(彬)監督は全選手のデータを頭に入れてきた。本来、監督は担当コーチから選手のデータを集める。ところが、仰木さんはそれを一切、実践しなかった。何と、新聞記者と毎晩飲んで記者から選手のデータを聞き出し、彼らと一緒に戦略を考えていたんだ」

青井「へぇ~。それは凄い。仰木監督の“仰木マジック”は、そういう“視点の違い”から生まれたものなんですね。ところで、仰木さんがパンチという名前にしたと聞いていますが……」

パンチ「そう。仰木監督と新井(宏昌)打撃コーチで“イチローがすごいぞ”と言う話をしていた時に、新井さんが“鈴木ではなくイチローにしたらどうか”と仰木さんに提案したらしい。すると、仰木監督は“イチローだけだと反感があるかもしれないから、佐藤もパンチに変えて2人セットで……”と話したのが“パンチ佐藤”誕生の原点」

●「イチロー」と「パンチ」の改名はセットだった

青井「イチロー選手は、入団当初からすごかったですか?」

パンチ「いや……。高卒で当時は18歳。初めて会ったときは、細くて手足が長くて。トラックを走る姿がキレイなのね。それと、印象として残っているのは練習の虫だったということ。でも、その時はせいぜい“頑張れ、未来の大物”という程度だった。でも、イチローは毎日、試合後であっても夜中まで練習をする。天才があれだけ努力するから、どんどん成長していったね」

青井「イチロー選手が現れた時、走攻守が揃っている新しい選手像が生まれました。パンチさんがおっしゃったように線の細いしなやかな選手でしたね。当時のプロ野球選手でそういうタイプの選手はいませんでしたよね」

パンチ「18歳とは思えず、しっかりしていたね。お父さんの教育だろうね。時計やバッグ、スーツといった派手な物は持ってなかったよね。ただ、バットには相当なこだわりがあった。自分で工場へ出向き、バットを作りに行くんだよ。弱冠18歳なのに、老成しているというか、プロ意識が高いというか……とにかく、道具と食べることにかけてはお金を費やしていたよね」

青井「パンチさんはご自身が引退される際、イチローさんに“ユニフォームくれよ”と言われたそうですが……」

パンチ「その話はね、イチローの方から“(パンチさんの)ユニフォームを頂けませんか”と言ってきたのが真相。“じゃあ、お前(イチロー)のユニフォームもくれよ」といって交換したわけなんだ」
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