もし日本軍があの時こうすれば…太平洋戦争「勝利の可能性」を探る!の画像
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"小国"日本が国策を誤って無謀な戦いを挑んだが定説となっているが、実は勝機は十分にあったのだ!!

「作戦よろしきを得れば、日本は敗北することはなかった――」
わずか1万数千の寡兵(少ない兵力)で22万の大軍を擁する張学良軍を撃破、"天才参謀"と称された石原莞爾陸軍中将は、終戦後の極東国際軍事裁判酒田臨時法廷で、こう咆哮してみせた。石原は"大ボラ吹き"だったのだろうか。答えは「ノー」である。実は日本には十分な"勝機"があったのだ。

「戦後、日本国民は、"軍部の暴走により、勝算のない対英米戦争を挑み敗れた"と教え込まれてきました。ところがこれは、ある種の"洗脳工作"なんです。戦後日本を統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本を"骨抜き"にすることを統治政策の第一に掲げました。そのためには、日本人に贖罪(しょくざい)意識を植え付けるのが最も効果的と考えたんです。結果として、"太平洋戦争は軍部が暴走し日本が大惨敗を喫した戦争"という理解が定着したわけです」(軍事ライターの黒鉦英夫氏)

こうしたGHQの思惑は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と呼ばれ、公式な文書も発見されている。
「GHQの謀略は見事成功し、日本国民は先の戦争に対し重苦しいイメージを抱くようになりました。そして、戦争の悲惨さのみを"反省"するようになったんです。ところが、肝心の戦略や作戦については、あまり"反省"がなされていません」(黒鉦氏)

そこで今回、本誌が戦略や作戦面の"反省"を試みてみたところ、驚くべき結果が導き出されたのだ。それが"日本は戦争に勝てた!"というものだ。
「にわかには信じられないでしょうが、こうした研究は敵だったアメリカ側で盛んに行われています。私も各種史料を分析した結果、"勝てないまでも負けなかった"と断言できます。ただ、"勝てた"というのは"アメリカ本土を占領できた"ということではありません。あくまで、日本はほどほどの勝利を収めることができた、あるいは、本土を蹂躙(じゅうりん)されるようなことはなかった、ということです」(自衛隊幹部OB)

では、日本はなぜ勝てる戦を逃したのだろうか?
「まず一番大きいのは、ドイツと軍事同盟を結んだことです。当時の日本にドイツと結ぶメリットは皆無、それどころかデメリットばかりがありました。ドイツは欧州で戦争を始めるや連戦連勝。これを目の当たりにした松岡洋右外相や陸軍の親ドイツ派が、盛んに日独同盟論を唱えだします。合言葉は"バスに乗り遅れるな"。ドイツが欧州戦線でフランスやイギリスをこてんぱんにしていたので、これに乗じて南部仏印を占領するフランスをアジアから追い出そうと考えたわけです。さらに、満州国と国境を接し、ノモンハンで手痛い目に遭わされたソ連に対する抑止力にもなると考えたんです」(外務省OB)

ところが……。
「結果はすべて裏目。ドイツと結んだことで、日本が本当は争いたくない英米両国との不仲が加速しました。さらに、対ソ戦略ではドイツに裏切られている。1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻め込みましたが、これは同盟国・日本の立場をまったく無視した無茶苦茶な行動ですよ」(同OB)

当時、日本はドイツにならい日ソ中立条約を結んでいたが、当のドイツがソ連と開戦してしまったわけだ。
「今でも"ドイツびいき"の人が多いですが、理解できませんね。伝統的にドイツは、自国の都合以外は考えません。これに日本も翻弄されてしまった。あの国と結んで得をした国は、歴史上ありませんから」(同)

ドイツと同盟を結び英米から敵視されるようになった日本は、その後、日米交渉を重ねるが実り少なく、ハル・ノートを突っぱねて対英米開戦に突き進んだ。

そして迎えた運命の日、1941年12月8日――。
この日、南雲忠一率いる連合艦隊空母機動部隊が、米太平洋艦隊の拠点であるハワイを奇襲した。直前にマレー半島攻略戦が開始され、日本は対米英戦争に踏みきった。開戦後半年はご存じのように連戦連勝。しかし、ここに大きな落とし穴があったという。
「まず、大勝利とされている真珠湾攻撃ですが、これははっきり言って"負けに等しい勝利"でした。その理由は本来の目的であった"敵空母"を討ち漏らしたこと。さらには石油タンクや艦艇の修繕施設を破壊しなかったことです。これらをすべて破壊し尽くしていれば、米太平洋艦隊は文字通り"壊滅"し、米軍の反撃は2年以上遅れたはずです。この間に日本は太平洋西側に強固な軍事拠点を築けたわけです」(海自OB)

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