「戦国最大のミステリー」と言われる本能寺の変。世紀の謀叛劇は、なぜ起きたのか!? 大勢の研究者が様々な説を提唱してきたが、その真相はようとして知れない。そして、また一冊の本により、新説が披露された!

時は天正110年(1582)。旧暦の6月2日、午前5時頃、明智光秀が織田信長の京の宿所・本能寺を襲い、主君の信長を自害に追いやった。
当時、信長は近畿地方を中心に日本の中央部を支配し、「天下布武」の望みは実現しかかっていた。まさにこれから……というとき、信長は家臣によって突然、その志を断たれたのだ。
しかし、戦国最大の謀叛劇であるにもかかわらず、なぜ光秀は信長を討ったのか――その真相は藪の中だ。あれから433年経た今、この日本史上最大の謎とも言える事件の真相に迫った。

まずは「光秀の野望説」。6月1日、信長は備中で毛利輝元の軍勢と対峙中の羽柴秀吉の救援に向かうべく本能寺入りする。
信長の側近とされる太田牛一が書いた『信長公記』によると、信長は「小姓衆二、三十人召し」ただけの小勢で本能寺に逗留。一方の光秀も丹波亀山城で軍備を整え、羽柴勢の加勢に向かう予定だった。
亀山から京の本能寺まではわずかの距離。光秀にとって、信長に代わって天下を取る千載一遇の好機だ。

6月1日の夜、亀山城を発った光秀は老ノ坂峠から一気に京の市中へ駆け下り、明けて2日の早朝、本能寺を襲う。光秀の動機としては単純明快だ。
しかも当時、光秀は67歳の高齢に達していたという。自身は老い先短く、長男の光慶は13歳と年若。専制君主化する信長を恐れ、明智家の将来を憂慮した光秀が、この好機に「一か八か」という賭けに出たという「憂慮説」が、これに加わる。

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