「秀吉のようにお抱え医師を持つことはできませんが、近くの内科医を贔屓にして、主治医代わりにすることはとても重要です。病気のたびに総合病院に行くよりも、信頼できる町医者を一人決めて受診することをお勧めしますね。そこで納得がいかないときや、紹介状を書かれたときのみ、別の病院を受診してみるべきです」(医療ジャーナリスト)

 織田がつき、羽柴(豊臣)がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川――の歌にあるように、戦国時代を終わらせ、真の勝者となったのは徳川家康だ。彼は75歳という長寿で大往生しているが、超のつく“健康オタク”で知られている。

 まず、家康の食生活だが、<麦飯を主食とし粗食を好んだ>ことで有名。「麦飯にはビタミンB1やカルシウムも含まれ健康的です。白米よりも歯ごたえがあるため、よく噛まなければならず、顎をよく使います。これは、脳の働きを活性化させるため、ボケ防止に効果的です」(前同)家康は<豆味噌も大好物>だったという。「豆味噌は家康の郷里である三河(愛知)の名産。アルギニンといって疲労回復、精力増進に効果のある成分を多く含有します」(同)

 生涯で16人の子をもうけたのも納得か。「家康は粗食を貫く一方で、時折、キジや鶴の肉を食べていました。高齢になると、動物性タンパク質を摂るのがおっくうになる方がいますが、これは大間違い。現代ならば、週に一度は、とんかつを食べるなどの習慣をつけてください」(同)

 家康が、<冬でも裸足で過ごした>のも有名。「織田家、今川家の人質として幼少時代を過ごした家康は質素、倹約の精神が染みついていたようで、足袋を履かず、家中の浪費を戒めていたと考えられます」(小川氏)ただ、“裸足”は健康には効果絶大だった。「人体において、足の裏はツボが集中する重要な部位。ここを鍛えることは、万病の予防に直結します。統計上、裸足で過ごすことが多い国には、足の疾患も少ないことが分かっています」(平地氏)明日から、自宅では靴下を脱いで過ごしてみてはいかがか。

「家康は信長同様、運動も大好きでした。ドラマや映画では、でっぷりとした“タヌキ親父”として描かれることが多いですが、これはデタラメ。彼は武芸に秀でた豪傑ですよ。家康が率いた三河武士は、決して自陣のほうを向いて死なないことで恐れられました。これは、最後の一瞬まで突進を止めない勇猛の証でしょう」(小川氏)

 各種史料によれば、実際の家康は水泳や武芸を好み、晩年は暇さえあれば鷹狩りに出かけていたという。「鷹狩りは現代で言うならゴルフのようなもの。“健康寿命”を延ばすには最適の方法だったはずです」(前出のジャーナリスト)

 耐えに耐え、忍びに忍んだ家康が、信長、秀吉の成し遂げられなかった新幕府の開設をやってのけたのは、頑強な体があったからだ。彼の平素からの口癖は、「長命こそ必勝の源」だったという。

 家康をはるかにしのぐ長寿を実現したのが、家康の晩年の参謀として活躍した“怪僧”南光坊天海である。108歳まで生きた。「天海の前半生は、よく分かっていません。桓武平氏の流れを汲む蘆名氏の系譜、将軍足利義澄の御落胤など、諸説あります。でも、最もミステリアスなのは、彼の正体が明智光秀というものです。家康が祀られた日光東照宮近くの高台を“明智平”と名づけたのは天海とされています。これは、天海が後世に綴った“暗号”だったのではないでしょうか」(小川氏)

 天海の正体が山崎の合戦で討たれたはずの光秀だとすると、その本当の没年齢は116歳になるというから驚きだが、その長寿の秘密は食にあったという。「天海も主君の家康同様、粗食を愛しました。特に好物だった<納豆を毎日食した>ようです。納豆は医者要らずともいわれ、コレステロール値を下げるサポニンや脳の機能低下を防ぐレシチンが豊富です」(前出のジャーナリスト)

 天海は家康の体調がすぐれないときに、納豆汁を勧めたという。“医食同源”は戦国の昔からの真理なのだ。続いて、中国地方の覇者である毛利元就(74)の養生訓を紹介しよう。“三本の矢”の教えで有名な元就のモットーは、<酒は飲んでも深酒はしない>だ。「彼は“酒を断て”と教えていたわけではありません。過度な飲酒を厳に戒めていたんです。自身はもちろん、家臣にもそれを徹底させていたというから筋金入りですよ」(小川氏)酒は百薬の長ともいい、「少量をたしなむ程度なら、血行や気の巡りがよくなる」(平地氏)。ただ、深酒は、「腎機能を低下させる」(前同)ので要注意だ。

 東北地方に覇を唱えた独眼竜こと伊達政宗(68)は、<朝晩の行水>を欠かさなかったという。「“灌水(かんすい)”といって、水をかぶる治療法があり、現代でも、一部の医師などがアレルギー疾患や精神疾患の治療の一環として行っています」(平地氏)

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