木内幸男は、1931年7月12日、茨城県土浦市で生まれた。9人兄弟の長男で、祖父は下駄の製造販売で財を成し、大きな土蔵を2つも持っていた。その土蔵の中に、新品でピカピカのバットがあった。木内の父が「ビクトリー」という野球チームのオーナーになっていたからに他ならない。

「ビクトリー」で野球の面白さに目覚め、旧制土浦中学(現・土浦一高)に入学した木内だったが、ショートを守ったデビュー戦は散々なものだった。<ショートゴロ八つ。ほんで、エラー七つだ。捕れたのが一つあったんだけど、それが暴投だった>(木内幸男著『オレだ!! 木内だ!!』)

 高校生活最後の夏は、水戸工と対戦。3対2と1点リードし、迎えた8回裏二死一、二塁。相手打者が放ったライナーを、センターの木内がダイビングキャッチを試みたが、レフトと交錯。打球は転々とし、2人のランナーが生還、逆転負けを喫した。そのとき、打球を捕れなかった悔しさが、コーチとして学校にとどまるきっかけになった。そして、早々と2年後に監督のお鉢が回ってきた。

 家が裕福だったからこそできた無給の仕事だったが、祖父が長火鉢の前でバナナを咥えたまま急死。家業が傾き、一転、貧乏生活を強いられる。そんな木内を支えたのが、21歳のときに結婚した1歳上の千代子だった。土浦一の野球部長の後輩が取手二の野球部長だった関係で、木内は月給4000円で誘われ、取手二の監督になる。電気ゴタツが3000円だった1957年のことである。

<取手にやって来たあとだ。家内が内職に新聞配達をしてたってことがあって、それをまた、オレが知らなかったんだよ……。『なんでそんなことすんだ。みっともねえ、この野郎!』もう私はカンカンだ。そしたら家内が黙ってタンスを指さすわけ。開けてみると、着物が1枚か2枚しか入ってねえ……>(前掲書) 残りの着物は、すべて質屋へ消えたのであった。

 何度も甲子園に出場するようになり、月給は手取り6万2000円に跳ね上がったが、それでも生活は苦しく、住まいは市営住宅だった。その家の床が抜けたのは、甲子園で晴れて全国優勝を成し遂げたとき。記者とカメラマンが大挙して押しかけ、床が抜けてしまったのである。

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