木内の監督人生は遅咲きであった。甲子園初出場は、1977年。高校野球の監督になり、24年目。決勝でPLを倒しての日本一は、31年目の夏であった。

 あまり知られていないが、全国優勝したとき、すでに木内は常総学院に移ることを決めていた。常総の櫻井富夫理事長から三顧の礼で迎えられたのである。ついでながら、櫻井理事長は、土浦一の野球部に2カ月間だけだが在籍したことがあり、木内の人となりを知っていたのだ。

 木内は前出の自伝に書いている。<優勝しちゃったもんだから、すごい噂が立っちゃったりしてね。契約金2000万円の豪邸つきとか。真相はな、契約金200万円の給料35万円なんだよ。それをオレは100万円の25万円に、こっちの方から下げてもらったの>

 仁志敏久(後に巨人、横浜)が入部してきたのは、木内が常総の監督になって3年目の1987年。木内に評価されるきっかけは、練習試合のバントだった。ランナー一塁の場面で、仁志がバントの構えをすると、一塁手、投手、三塁手が突っ込んできた。ところが、打球はピッチャーの頭上を越え、マウンド付近に落ち、ヒットになった。「すると一塁側の常総学院ベンチから、木内監督の声がした。『仁志は相手の動きをよく見てる!』」(仁志敏久『わが心の木内野球』) 木内は仁志のバントミスを承知のうえで、他の選手に守備位置を見る大切さを説いたのだった。

 木内は仁志を「県西の山猿」と呼び、可愛がった。ガッツ溢れるプレーを評価し、1年生ながら正遊撃手に抜擢。常総学院は茨城大会を圧勝し、優勝候補として甲子園に乗り込んだ。仁志は木内の期待に応え、準々決勝の中京戦では8回裏、木村龍治(後に巨人)からダメ押しとなるセンターオーバーの2点ランニングホーマーを放ち、チームの勝利に貢献した。

 準決勝の東亜学園戦は、白熱した好ゲームになった。両チーム無得点のまま迎えた6回表、一死から東亜の3番・広瀬秀之(左翼手)が打ったショートゴロを、仁志が一塁へ悪送球。打者走者は二塁へ進み、4番・小関章(一塁手)がレフト線へ二塁打を放ち、東亜が1点先行した。

 ベンチの木内は、すっかりお冠だった。「お前らの戦う姿勢には、失望したっぺ」常総打線は、東亜の川島堅(後に広島)に3安打しか打てず、イライラが募っていたのである。

「同点になったら、負けない指示を出してやっぺ」そう言い残し、ベンチ奥に引っ込んだ。にもかかわらず、エースで5番の島田直也(後に日本ハム)には、「全打席、本塁打を狙え」と耳打ちしていた。実際、島田は8回裏、レフトへ同点ホームラン。木内が出っ歯を剥き出しにして最前列に舞い戻ったのは言うまでもない。

 延長10回裏、先頭の島田がライト前ヒットを放つと、次打者の仁志を呼んだ。「6回の点(エラー)は、おまえが取り返せ」気持ちの強い仁志の心に火をつけたのである。仁志は1球目をファウル。東亜の副島正之捕手はそれを意図的なものと判断し、バントシフトを内野陣に指示した。しかし、木内が仁志に出したサインは、バントではなく、ヒットエンドラン。仁志がフルスイングすると、打球は大きくバウンドし、投手の頭を越えた。慌てたショートの西村英史が、一塁へ悪送球。一塁から島田が生還し、常総が2対1でサヨナラ勝ちを収めた。

「相手の裏をかかなきゃ、勝利はないっぺ。バントで二塁に送るような弱気な作戦じゃ、川島君は打ち崩せないっぺ」(木内) 2003年夏の甲子園大会決勝も、木内はマジックを繰り出し、東北高校のダルビッシュ有を攻略。深紅の大優勝旗を再び茨城に持ち帰ったのであった。(文中=敬称略)

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