1984年8月21日、夏の甲子園大会決勝は、木内率いる取手二と、桑田真澄(2年=後に巨人)と清原和博(同=後に西武ほか)を擁するPL学園の戦いになった。1回表、取手打線が桑田に襲いかかる。ドラム叩きが趣味の一番・吉田剛(遊撃手=後に近鉄、阪神)は三塁ゴロ、2番・佐々木力(二塁手)はライトフライに倒れたが、ロックバンドのリーダーを務める3番・下田和彦(左翼手)がセンターオーバーの二塁打をかっ飛ばし、連続ヒットとエラーで2点を先行した。

 1回裏、取手二のエース・石田文樹(後に大洋)は二死二塁から4番・清原に四球、5番・桑田にショート内野安打を許したが、6番・北口正光(三塁手)をレフトフライに打ち取り、無失点。石田は父母会からプレゼントされた強精剤を飲んでマウンドに登っていた。6回裏、PLに1点を返されたが、7回表、吉田が桑田から2ランホーマーを放ち、4対1。ベンチはお祭り騒ぎになった。吉田の父は、常磐線の取手-勝田駅間の切符を手に、アルプススタンドで「取手勝った」と大喜びしていた。

 取手二は監督も選手も父母も型破りだった。木内が男女交際を容認したせいで、選手は好きな女の子の名前をバットに記し、ヒットを連発したのである。しかし、8回裏、PLは4番・清原のレフト前ヒットを足がかりに2点をもぎ取り、4対3と1点差に迫ってきた。

「相手は逆転のPL。延長戦になるかもしれん」木内がぼやくと、9回裏、石田が1番・清水哲に本塁打を浴び、4対4の同点。すると、木内は柏葉勝己をリリーフに送り、ワンアウトを取ると、石田を再登板させ、清原を三振、桑田を三塁ゴロ。このワンポイントリリーフが、後に「木内マジック」と呼ばれる奇策の始まりだった。

 “KKコンビ”を抑え、流れが取手二にきた。10回表、一死一、二塁から5番・中島彰一(捕手)が打席に入る。中島はツッパリ軍団の中にあって、異色の優等生タイプだった。頭のいい中島は、2ボール1ストライクからの4球目、桑田がセットポジションに入る直前、握りがストレートなのを見抜いた。ストレートは真ん中高めのボール球だったが、大根切りで上から強く叩くと、打球はぐんぐん伸び、左中間スタンドに飛び込んだ。

 3ランを放った中島がホームベースを踏むと、優勝が決まったとばかり、選手たちはホームベース周辺に歓喜の輪をつくった。「早く、ベンチに戻れ!」木内が叫ばなければ、選手たちの喜びの輪は解けなかったであろう。木内は出っ歯を剥き出しにしていたが、日本高野連幹部は苦虫を噛みつぶしていた。

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