また、大谷翔平の起用に関しても、二刀流として育て始めた当初は、「なめとんのか」と嫌味連発。大谷が結果を出し始めると、徐々に二刀流容認の方向に発言を軌道修正したが、今年は「1番・投手」の采配を「論外だ」と一笑。1回に打順が回ってくる1番ではマウンドに立つ準備ができないという理由は納得できるが、そんな采配をする栗山監督を<自分が目立ちたいだけだ>(前掲書)とまで酷評しているのだ。

 要は<栗山は監督の器じゃない>(前掲の『FLASH』)と言いたいらしい。“知将”野村克也はなぜ、そこまで愛弟子をこき下ろすのか。そこには、四半世紀にわたる両氏の間の“因縁”があったのだ。

「栗山監督はノムさんのことを快く思っていないでしょう。なにせ、自身が20代で引退する一つのきっかけを作った人物ですから」(スポーツ紙デスク)

 東京学芸大出身の栗山監督は、本来プロと無縁の“教員の卵”だった。「彼をプロに推したのは、元プロ野球選手でスポーツキャスターの佐々木信也さんらしい。佐々木さんが、ご子息の大学野球を観戦した際、対戦相手の栗山に目をつけて、ヤクルトを紹介したって話だよ」(事情通)

 入団テストを経て、1984年にドラフト外でヤクルトに入団したわけだが、当時、ヤクルトのスカウト責任者だった片岡宏雄氏はこう証言する。「バッティングはそこそこで、足は速かった。でも、スローイングはあまり良くないから、プロでやっていくのは難しいと思った」

 片岡氏は、国立大学を出てまで不安定な仕事に就くこともあるまいと、入団を断るつもりだったという。「どうしてもやりたいと本人が言うので、熱心だったし、守備固めとか、代走として使えるかもしれないと、入団を認めたんだ」(前同)

 栗山選手は猛練習に取り組んだ。当時の打撃コーチとのマンツーマンでの練習で覚醒し、3年目の86年に外野手としてレギュラーに定着。88年には規定打席不足ながら.331の打率を残すまでになり、89年にゴールデングラブ賞を受賞するなどの活躍を見せた。

 そんな栗山の転機となったのが、野村氏がヤクルトの監督に就任した90年。この年、栗山は右ヒジの故障やメニエール病の発症に加え、若手の台頭もあって、出場機会が激減。29歳の若さで現役を引退した。

「まあ、故障と病気が引退を決める一番の理由だろうけど、干されたからってのもあると思うよ。ノムさんが来て1年で引退しちゃってるわけだし。まあ、叩き上げのノムさんのことだから、“国立大出のコネ入社”が嫌いだったんでしょう」(前出の事情通)

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