■古田敦也は「野村ID野球」の申し子

 現役時代、ONとしのぎを削ったレジェンド、野村克也(83)も、多くの愛弟子を残した名指導者だ。特にヤクルト監督時代は、90年から在籍9年で日本一を3度達成。黄金時代を築き上げた。その立役者となったのは、捕手の古田敦也(53)。野村監督就任と同時に入団した、まさに「野村ID野球」の申し子だった。「野村監督は、まずスカウトに“優勝するには、いいキャッチャーが欲しい”と注文を出した。そこでリストアップされたのが古田でした」(スポーツ紙記者)

 ただ、当時の古田は実力を評価されながらも、メガネをかけているという理由で、どの球団も獲得に二の足を踏んでいた。「野村監督は“メガネなんて、どうにでもなる、絶対取れ”と指名を決定。ドラフト2位で単独指名でした」(前同)

 古田がヤクルトに入団すると、野村は“ID野球”を徹底的に叩き込んだ。「野村さんは“ブルペンなんか行かんでもいい、ベンチに座って勉強してろ!”と、試合中に古田を自分の前に座らせ、配球理論をずっと聞かせ続けました。古田がレギュラーとなった後も、味方が攻撃している間は、ひたすらリードの反省会。ときには立たされて説教されていましたね」(スポーツ紙デスク)

 野村監督の高い要求を前に、いつも怒られてばかりだった古田が“一番怒られた”と語る出来事がある。1年目途中から正捕手の座をつかみ、迎えた2年目のオープン戦でのことだ。「ベンチ際にファールフライが上がったとき、古田は“ぶつかったらマズイ”と最後まで追わなかったんだそうです。すると、これに野村監督が激怒。“去年までなら飛び込んで取っていた。その慢心がダメなんだ!”と2時間、正座させられたといいます」(スポーツライター)

 しかし、このゲキが効いたのか、この年に古田は首位打者を獲得。名実ともに一流選手となり、やがて“平成最高の捕手”にまで上りつめる。

 そんな、まっさらな状態から染め上げられた古田とは対照的に、これまでの野球観を野村監督にガツンと変えられた選手もいる。その筆頭が、“ブンブン丸”池山隆寛(52)だ。野村監督就任前、池山は2年連続30本塁打をマークするなど、すでにヤクルトの若きスラッガーとして頭角を現していた。「前任者・関根潤三監督の“三振を怖がらず振れ!”という指導もあって、池山の打撃は三振かホームランかのフルスイング一辺倒。本人も当時、“三振の延長がホームラン”とまで語っていたほど。そんな池山を野村監督は“どんなときも振り回すのはチームに迷惑”と諭し、意識改革させていったそうです」(前同)

 天性の素質だけでプレーしていた池山も、野村IDの薫陶を受け、次第に頭を使った野球を覚えていく。「池山は、92年のシーズン開幕前、“バッターボックスに立ったとき、ミーティングのことが、ふと頭の中に浮かぶ”と語っていました。このあたりから、野村監督の教えが自分の力となっていることが実感でき始めたんでしょうね」(同)

 この年、野村ヤクルトは初めてリーグ優勝。池山は勝つためのバッティングを身につけ、“野村ID野球の申し子”となっていた。「2004年、楽天監督に就任した野村さんは、池山を一軍打撃コーチに据えたんです。これは、それだけ野村野球の理解者として信頼している証。池山も、当時39歳だった山崎武司を二冠王に導くなど、右腕として手腕を発揮しました」(スポーツ紙デスク)

 偉大な遺伝子が、いつまでも継承されることを願う。

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