■ロックスター、フォークシンガーを目指して

 では、両者の生い立ちとデビューから、共通点と違いを探ってみたい。矢沢永吉は1949年に広島で生まれた。被爆した父と幼い頃に死別し、極貧の少年時代を過ごしていた矢沢を救ったのが、ラジオから流れてきたビートルズの曲だった。高校卒業と同時にロックスターを目指して故郷を離れ、横浜でバイトをしながらバンド活動をスタートさせた。

 一方、長渕剛は1956年に鹿児島で生まれた。父親は警察官だったが、四畳半に一家4人が生活する貧乏暮らしだった。高校生の頃に吉田拓郎のコンサートを観たことでフォークシンガーを目指すようになり、大学時代は場末のバーで歌い続けたが、泥酔客から「演歌をやれ!」と罵声を浴び続ける劣悪な環境から、キャリアをスタートさせている。

 矢沢もデビュー前はキャバレーやゴーゴークラブでどさ回りをしていたが、1972年に『キャロル』を結成すると、快進撃が始まる。歌謡曲とフォーク中心だった当時の音楽シーンに彗星のごとく現れたキャロルは、リーゼントに革ジャンという不良スタイルで、瞬く間に人気バンドになるのだ。

 これとは対照的に長渕のデビュー時は、長髪のナイーブなフォーク青年といった印象だった。1977年にデビューしたが、名前を「ながぶち・ごう」に変えられ、演歌歌手として売り出されたことに納得できず、いったん故郷の九州に戻り、“半引退状態”になる。翌年、『巡恋歌』で見事再デビューを果たしているが、長渕の神髄である“負け犬が闘志をむき出しにするかのようなメッセージ性”は、デビュー当時の挫折体験が少なからず影響しているはずだ。

 それに比べ、矢沢は確かにキャロルで順風満帆のスタートを切ったかに見えるが、メンバーとの確執により、わずか2年半で解散することになり、1975年にソロデビューしている。しかし、キャロル時代の意匠を全否定するかのようなバラード中心の曲構成に、ツアーの評判は惨憺たるものだった。

 矢沢の自伝『成りあがり』には、〈一回目、散々な目に遭う。二回目、落としまえをつける。三回目、余裕。〉の名言があるが、このメッセージは、ソロデビュー時に辛酸を舐めた経験から生み出されているのだ。矢沢はこの言葉通り、その後、『時間よ止まれ』と『成りあがり』がミリオンセラーとなり、きちんと“落としまえ”をつけたのである。

 長渕もまだ無名に近かった頃、吉田拓郎のコンサートに特別出演し、観客から「帰れコール」を浴びるという散々な目に遭っている。しかし、翌年リリースした『順子』がオリコンチャートの1位を獲得し、一躍トップシンガーの仲間入りを果たした。しかし、そこに安住しないのが長渕という男である。

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