■怪物が覚醒!

 甲子園は、多くの“怪物”も生み出した。高卒新人ながら、ルーキー年から3年連続最多勝という偉業を成し遂げた松坂大輔(中日)も、その一人だ。「松坂は80年生まれで、“大輔フィーバー”の申し子。荒木大輔の活躍を見た松坂の両親が、我が子に“大輔”と名づけたのは有名な話です。そのときから、甲子園のマウンドに立つことが宿命づけられていたのかもしれませんね」(スポーツジャーナリスト)

 その子どもは、やがて横浜のエースとなり、“平成の怪物”と呼ばれる存在となった。そんな松坂が、荒木大輔と肩を並べるほどの大スターとなったのは、3年夏の甲子園。準々決勝の対PL学園戦だった。「春のセンバツで横浜に負けていたPLは、松坂を徹底的に研究していた。その成果か、試合はどちらも譲らず、延長17回の長い勝負となりました」(前同)

 離しては追いつくシーソーゲーム。特に延長に入ってからは、先攻の横浜が二度リードを奪ったがPL学園がすぐ追いつくという、すさまじい戦いとなった。「PLの驚異的な粘りに、マウンドの松坂は“いい加減にしろよ”とつぶやいていたとか」(球界事情通)

 そして、誰もが引き分け再試合を考えた17回表、横浜は2アウトから2ランホームラン。粘るPL学園にトドメを刺し、松坂はそのまま完投勝利を飾った。「試合後のインタビューで、松坂は、この試合で投げた250球を“すべて記憶していた”と語ったそうです。つまり、意味のないボールは1球もなかったということ。投げるボールだけでなく、集中力まで怪物級だと驚きました」(前出の記者)

 その後、横浜は勝ち進み、決勝では松坂がノーヒットノーランを達成して優勝。98年夏の甲子園は、まさに松坂のための大会だった。

 今や“世界の二刀流”となった大谷翔平(エンゼルス)も、花巻東時代から全国区の注目選手だった。しかし、意外にも甲子園では、チームとしても個人としても満足な成績を残せていない。「大谷は2年夏と3年春に甲子園に出場。いずれも初戦敗退しています」(前同)

 超高校級の逸材として騒がれた大谷だったが、実は高校当時、思うようなプレーはなかなかできなかった。「体の成長に筋力がついていかず、苦労したようです。その影響から2年の夏に股関節を故障。これが尾を引き、長らく本格的な投球練習ができませんでした」(高校野球担当記者)

 投手を封印した大谷。それでも、チームは甲子園出場をもぎ取った。大谷自身が「みんなに連れてきてもらった」と語った、3年春の大会だった。「花巻東は、1回戦で藤浪晋太郎(阪神)と森友哉(西武)のバッテリーを擁する大阪桐蔭と対戦。先発した大谷は、11四死球で9失点と大乱調で、藤浪からホームランを打ったのが唯一の見せ場でした」(前同)

 この敗北を機に、大谷は投手として、さらなる鍛錬を積むことになる。そして、最後の夏として臨んだ岩手大会の3回戦。当時の高校野球史上最速となる160キロをマークする。「大谷が投げた瞬間、キャッチャーは“ショートバウンドする”と思ったそうです。しかし、ボールはバウンドすることなくミットに飛び込んできた。恐ろしいまでの“伸び”だったようですね」(同)

 その後、プロ入りした大谷は、日本球界最速となる165キロを計測。MLBで、さらに球速は伸びていくに違いない――。

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