■明智光秀は医師だった!?

 その本能寺の変の中心人物、主人公である光秀の謎を追ってみよう。まずは、光秀が実は医師だったのではないかと思わせる新史料『針薬方』の話からだ。「光秀がまだ将軍・足利義昭や信長に仕える前、西近江の田中城というところに籠城した際、幕府奉公衆に医術の秘伝を伝授したと書かれているんです」(前出の郷土史研究家)

『明智光秀は二人いた!』の著書もある前出の跡部氏が、こう解説する。「まず、光秀が秘伝を伝えた相手が幕府奉公衆であることを考えると、光秀も同じ身分であったと考えられます。次いで『針薬方』によると、光秀の医術の知識は、傷の手当などの外科的なものから産婦人科的なものまで、幅広かったことも分かっています」

 幕府奉公衆で外科医兼産婦人科医の光秀。大河では美濃明智荘に住む道三の家臣として描かれているが、どうやら別の顔がありそうだ。

 一方、光秀が本能寺で信長を討ち取った数日後、京の町衆が光秀に粽を献上したという記録がある。「光秀の好物が粽だったからでしょう。これには事後談があって、そのとき、光秀は包みの笹の葉を取らず、包みごと粽を口に入れてしまったそうです。信長を討っても期待した援軍が集まらず、意気消沈して自分自身を見失っていたのではないでしょうか。町衆たちはその姿を見て、“こんなヤワな男だったのか”と、光秀という武将を見限ったといいます」(前出の県文化財保護課担当)

 智将といわれる光秀の意外な素顔と言うべきだが、実は彼、南蛮人宣教師の記録によると、「ほとんどすべての者から快く思われていなかった」という。織田家中で嫌われ者だったようだ。「その理由は〈絶えず信長に贈与することを怠らず〉、さらに信長の前で〈必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった〉と、上司(信長)に気に入られようとする魂胆が見え見えだったようです(笑)」(前同)

 光秀は当初、将軍・足利義昭の家臣でもあったが、「同僚に鞍をプレゼントし、その代わりに“退職をお許しいただけるよう(義昭公へ)おとりなしください”と、退職の口聞きを依頼しています」(郷土史研究家)

 ブラック企業を辞めたい社員が退職代行会社に依頼するのが最近、ニュースになっているが、そんなところか。

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