■円心は討幕だけでなく幕府開設の功臣だった

 円心はその後、隠岐を脱出して船上山(鳥取県琴浦町)にいた後醍醐天皇が京に帰還中、兵庫の福厳寺(神戸市)で天皇に拝謁する栄誉に浴した。

 こうして幕府が倒れ、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、円心は播磨守護に任じられた。

 しかし、復古政治によって国司の権限が増し、守護はその風下に立たねばならず、円心は播磨国司に新田義貞が就いたことに不満を抱き、尊氏の挙兵に応じたとされるが、大塔宮幽閉事件の関連を重視すべきではないか。

 後醍醐の寵妃である三位の局が次の皇太子位を巡って大塔宮に謀叛の嫌疑を掛けたといわれるだけに、彼女にとって、その令旨を受けて挙兵した円心は危険な存在に映っただろう。

 実際、円心は大塔宮幽閉事件に連座して播磨の守護職を剥奪された。円心は討幕だけでなく幕府開設の功臣だった

 一方、尊氏は新政に不満を抱く武士に推される形で挙兵。建武三年(1336)正月、一度は京に入ったが、義貞や北畠顕家の軍勢に敗れ、丹波、摂津を経て播磨に逃れた。

 円心はそのときに尊氏に対し、後醍醐天皇(大覚寺統)と対立する持明院統の院宣をもらって朝敵の汚名をそそぎ、西国で兵を養って再起を図るように進言。のちに持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が争う時代になるが、以上の話が掲載された『梅松論』の話が正しければ、その契機は円心の提言にあったと言える。

 尊氏は円心の提言を受け入れて九州に走って軍勢を糾合し、海路と陸路から山陽道を攻め上り、六月に再び入京。後醍醐天皇を吉野に追う。尊氏が九州などで巻き返す五〇日の時間を稼いだのが円心だった。

 その彼が居城の苔縄城を捨て、より峻険な白旗城(名称は源氏の白旗にちなむ)を築いたことで、新田義貞の征討軍は釘づけにするが、新政府側は千早城が落とせずに傷口を広げた旧幕府の轍を踏んだのだ。

 円心は討幕のみならず、尊氏の幕府開創の功臣でもあり、彼によって播磨守護に任じられたことは言うまでもない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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