特集「戦国武将の父」【武田信玄編】信虎が息子に追放された“真の理由”の画像
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 名だたる戦国大名が輝かしい成果を残すことができたのは、それぞれの家に歴史の積み重ねがあったからこそ。そこで今号から四回、著名な戦国武将の父に焦点を当てる。

 第1弾は武田信玄の父である武田信虎。子(信玄)に国を追われた武将として戦国史に不名誉な記録を残した。

 信虎は通説によれば、(1)月ごとに一三人の妊婦の腹を裂き、胎児の発育状態を調べた、(2)家老の山県、馬場、内藤、工藤ら三七人を手打ちにした、(3)僧六〇余人を焼き殺した という悪逆非道の暴君で、家臣や領民に忌み嫌われて信玄が断腸の思いで追放したとされる。だが、近年は父の追放という信玄の行為を正当化するために実像が歪められた、という話に落ち着きつつある。

 その信虎(当初は信直)は明応三年(1494)生まれ。父の信縄が異母弟の油川信恵と家督を争った関係から、その死後にまず、この叔父を排除しなければならなかった一方で、武田家が守護職の甲斐国に自立した国衆が割拠していたことから、ここを平定する必要があった。

 こうした中、信虎が中心部(国中)と山塊で隔たる郡内地方の小山田信有を下し、姉を嫁がせて姻戚関係を結ぶと、その動きを警戒した上野城(南アルプス市)城主の大井信達が、駿河の今川氏親と関係を結んだ。

 永正一二年(1515)、氏親が甲斐に送った福島正成が勝山城(甲府市)に入ると、信虎は信達の居城である上野城を攻めたが、その周囲は泥地で足場が悪く、騎馬武者はことごとく討ち取られて敗走した。

 以降、両軍の睨み合いが続いたあと、今川勢が当時、甲斐の守護所があった石いさわ和館(笛吹市)に攻め寄せ、信虎は恵林寺(塩山市)に逃れて九死に一生を得、態勢を挽回。今川勢は勝山城に引き、信虎による兵糧攻めの結果、正成が氏親に泣きつき、双方が和睦した。

 なお、その労を取ったのが著名な連歌師の宗長で、今川勢が駿河に撤兵したあと、信虎は和睦の証として信達の長女を正室に迎え、大井夫人と呼ばれた彼女が武田晴信、のちの信玄を生んだ。

 こうして甲斐平定を前進させた信虎は永正一六年(1519)、守護所を石和館から府中の躑つつじ躅ヶ崎(甲府市)に移転。以降、甲府が甲斐の中心となり、信虎は館の周囲に、国衆らが家族で住むための屋敷地を与えた。これは家族を人質とするためだった。

 信虎はこうして戦国大名への道を歩み始めたが、その矢先に危機が到来。大永元年(1521)、福島正成(前出)と中心とした今川勢が再び甲斐に入り、大軍を率いて甲府に向けて進軍すると、平定の途上だった信虎は二〇〇〇の兵しか動員することができず、懐妊中だった大井夫人を躑躅ヶ崎の館から要害山城(甲府市)に避難させなければならなくなったのだ。

 それでも信虎は、信玄が同年一一月に要害山城で生まれる直前、飯田河原(同)で今川勢を蹴散らして最大の窮地をしのいだ。

 その後、享禄四年(1531)に栗原信友ら国衆による大規模な反乱が勃発し、これを韮崎近郊で破って壊滅させると、もはや国内に敵はなく、甲斐はようやく統一された。

 だが、信虎はその後も安寧した日々を過ごすことはなく、今川勢の他、小田原の北条氏と対立。その北条と関東で睨み合う扇谷上杉朝興が武田家を頼りにし、娘を信虎の嫡男(信玄)に嫁がせたが、まもなく彼女が病死したことで、公卿である三条公頼の娘が二人目の正室として迎えられた。

 一方、今川家はその頃、氏親の嫡男である氏輝の代で、彼が天文五年(1536)に亡くなると、弟二人の家督争いが内戦に発展する。信虎が支持した栴岳承芳(還俗して今川義元)が勝つと、その翌年に娘(信玄の姉)を嫁がせ、武田と今川の争いに終止符が打たれた。

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