■実父の追放には大飢饉の発生が関係か
また、信虎は国衆による前述の反乱が起きた際、自身を揺さぶった信州諏訪家の当時の当主である頼重にも娘(信玄の妹)を嫁がせている。
今川だけでなく、諏訪とも同盟した信虎は諏訪頼重とともに信州小県郡の海野棟綱を攻め、佐久・小県郡を手に入れた。海野棟綱の子(孫説もあり)の真田幸隆は後に信玄に仕えることになるが、当時は上野国に亡命している。
信虎はこうして甲斐の平定という難事業を成し遂げると、婚姻政策によって他国勢と同盟。信玄の代に本格化する隣国信州攻略の橋頭保も築き、彼が武田家の最大版図を築く素地がこの時点でできあがった。
だが、信虎が天文一〇年(1541)六月、娘婿の今川義元を訪ねるために甲斐を発ったところ、信玄のクーデターで国境を封鎖され、駿河に追放された。信虎が四八歳、信玄が二一歳のときだ。
信虎はその後、娘婿の元で不自由なく暮らし、上洛して将軍足利義輝に仕えるなどして信玄より長生きしたが、一度も甲斐の地を踏むことなく、天正二年(1574)三月に信州伊奈で死去した。享年八一。
では、彼はなぜ自身の息子に追放されたのか。通説の悪逆非道な振る舞いでなかったことだけは確かとみられ、その明確な理由を見出すことができず、戦国時代における謎の一つとなっている。
ただし、諸記録から天文九年(1581)八月に大型台風が中部地方を襲い、さらに、一〇〇年に一度という大飢饉が発生して国内が疲弊した事実が窺え、この関連が注目されている。
いずれにせよ、信虎が信玄や家臣と対立したことが背景にあり、信玄が父の追放を正当化するタイミングを見計らっていたときに飢饉が発生したことで、それを理由に人心刷新が図られた、という見方はできるだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。