■立教大学に入学、運命の出会い

 小野の訪問から数日がたったある日、長嶋のもとに、「うち(立教)の寮とグラウンドを見に来ないか」と、連絡があった。立大の山崎清雄マネージャーからだった。長嶋は誘いに応じ、南長崎を訪れたが、立大に入ろうとは考えてはいなかったという。

「君が長嶋君か!」 グラウンドに行くと、砂押監督が笑顔で歩み寄ってきた。長嶋は学生服姿で、手ぶらで見学に来ていたが、なぜか、新品の立教のユニフォームとスパイクが用意されていた。サイズも長嶋にピッタリだった。「どうやって、スパイクのサイズまで調べたんだろうね(笑)とは、後年、長嶋が親しい記者に漏らした弁。グラウンドでは紅白戦が行われていた。ゲームを眺めていた長嶋に砂押監督は、こう言った。「よし、君も打ってみろ」 長嶋は一瞬面食らったが、用意されていたユニフォームに着替え、打席に入った。

 長嶋は石原照夫(後に東映に入団)が投げた外角のストレートを打ち返し、右中間を大きく破る二塁打。この一打で、砂押監督は長嶋の才能を見抜いた。「ご苦労さん、もういいよ」 長嶋の“抜き打ちテスト”は、1打席で終わった。

 後日、立教大学では砂押監督と数名のOBが列席し、スポーツ推薦会議が行われた。1番目に全員が芦屋高校の本屋敷錦吾(後に阪急に入団)の名を挙げると、「少々粗削りな部分はあるが、素質は十分」と、砂押監督は2番目に長嶋の名を挙げた。「そんな無名の選手を2番手にしてよいのか」と異論が出たものの、砂押監督はそのまま押し切ったという。当時、立教の野球部に与えられた推薦枠は15人だった。

 立教に入学した長嶋は、野球部で“鬼”と陰口を叩かれるほどに恐れられていた砂押監督のもと、猛練習に励んだ。有名な“月夜のノック”で守備の基本を学び、チーム練習の後は、池袋にあった砂押監督の自宅で、2時間、素振りをした。〈一選手に2時間もつきっきりで個人練習したなんてのは前代未聞。長嶋は、砂押監督のおかげで打者の才能を開花させた〉 後年、“学生野球の父”とされる飛田穂洲は朝日新聞に、こう寄稿している。

 ご存じのように長嶋は、東京六大学野球で押しも押されもせぬスターとなる。当時の新記録となる通算8号本塁打を放ったあと、砂押監督は報知新聞に、こうコメントしている。〈私が長嶋を初めて見たのは昭和28年の秋。一目見て“今まで手掛けたことがない大選手になる”と直感した。私は、長嶋に細かい技術的なことはほとんど言わなかった。彼はちょっとヒントを与えると、私の言わんとしていることを悟ってくれた。天賦の才があったんだと思う〉

 “ミスタープロ野球”長嶋茂雄は、砂押監督と出会わなければ生まれなかったかもしれない。

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