■伝説となった地獄の特訓

 立教大学に入学した長嶋は、そこで砂押邦信監督と出会い、才能を開花させる。「“鬼の砂押”の名はダテじゃなく、とにかく選手には厳しい練習を課した。この“砂押流”に対して、部員らが反旗を翻したんです。中心になったのは、立大卒業後に南海に行く大沢啓二でした」(ベテラン記者)

 砂押監督は特に長嶋に過酷な練習を与え、しごき抜いた。昭和30年代の運動部は、現在とは比べものにならないくらい練習が激しかったが、砂押の特訓は当時としても“地獄”だった。いまだに伝説として語り継がれているのが、「月夜のノック」だろう。寮での夕食が終わり、部員がリラックスできる時間に、長嶋は一人、グラウンドに連れて行かれた。当時の立大のグラウンドは、閑静な住宅地の中にあった。もちろん、ナイター設備などない。真っ暗なグラウンドで砂押自らバットを握ると、長嶋にノックし、徹底的に守備練習を行わせた。暗闇でも見えるようにと、ボールには石灰をまぶしていたというが、効果は気休め程度だろう。

「グラブに頼るな! 体で捕りにいけ!」 砂押の怒声と長嶋の息遣いが、静寂に包まれたグラウンドに響いた。肩で息をする長嶋は、最後はやけくそになるとグラブを地面に投げつけ、素手でノックを受けたという。連日の特訓で、長嶋の体はアザだらけになった。この「月夜のノック」により、長嶋の感覚は研ぎ澄まされていき、ついには暗闇で捕球ができるようになったという。プロ入り後、長嶋はこう語っている。「要は勘ですよ。バットにボールが当たってから、目の前に来るまでの時間が分かるようになった。おかげで、守備に必要な“心の準備”が身についたんです」

 山籠りした剣豪が、月明かりで必殺の剣に開眼したような話である。もう一つの特別練習は、砂押監督の自宅で行われた。長嶋と、1年先輩の矢頭高雄(立大から大映入り)、竹島本明は、夕食後に池袋にあった砂押の自宅に呼ばれ、延々と素振りをさせられた。「長嶋を初めて見たとき、矢頭、竹島と3人でクリーンアップを組めば、最強のチームができると思ったんだ。だから、この3人を徹底的に鍛えようと思った」

 砂押監督は後に、こう述懐している。野球部の寮のある東長崎から、池袋の砂押監督の家までは、歩いて1時間程度だった。そこを砂押は走って来いという。ノルマは20分。バットを片手に3人が寮を出ると、マネージャーが「今、出発しました」と、砂押監督に電話を入れる。すると監督は、ストップウォッチのスイッチを入れて、3人を待ち受けていたというから、たまらない。練習を終えて寮に帰るときもランニングだった。

 バッティンググローブなどない時代。素手でバットを振っていると、手の皮がむけて練習できなくなるので、軍手で素振りした。軍手も摩擦で熱くなるため、軍手を氷水の入ったバケツに浸してから素振りした。3人は軍手が乾くとまたバケツに浸し、繰り返し素振りしたという。「みな、手の感覚がなくなってしまい、練習後に女房が出すお茶をつかめないほどだった。よく耐えていたなと感心しますよ」

 立大を去ったあと、砂押監督は、こう本音を語っている。

 しかし、砂押監督と長嶋の師弟関係は突如、終わりを告げる。砂押監督があまりに厳しい練習を課すため、一部の部員と反砂押派のOBが結託した“クーデター”に遭い、辞任に追い込まれたのだ。長嶋が2年生の秋のことだった。

 立大野球部を常勝軍団に育てた砂押監督は、その後、日本鉱業日立、国鉄スワローズで指揮官を務めたあと球界を去り、ゴルフを趣味にした。ゴルフは決まって北海道でやった。実は、巨人の北海道遠征のときに必ず、長嶋と食事を楽しんでいたんだとか。アテンドしたのは、立大OBの小野秀夫だった。「御大(立大野球部OBは砂押監督をこう呼ぶ)は、いつも楽しそうだった。鬼の形相だった立教時代とは別人でしたね」とは長嶋の弁。楽しかったのは長嶋も同様で、信頼する恩師に、「監督さん、インコースがうまくさばけなくて……」と、アドバイスを求めたりした。砂押も、「君のような大打者に恐れ多いことだけど……」と前置きして、熱心にアドバイスしたという。「2人の師弟関係は美しかった。ずっと、師弟のまま続きました」と、小野は語った。

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