■アイドル時代はワンレンボディコンで

――幅広い活動をされているんですね。ところで、30年前といったら当時の日本はバブル景気で、アイドルだった田中さんは、ワンレンボディコン、トサカヘアーで、まさしく“時代の寵児”というイメージがありました。

田中 アハハハ、ピンク・レディーさんに憧れて歌手になりたいという夢があって芸能界に入ったんです。最初はモデルとして活動していて、その後、ドラマにも出演させていただいたりして、1989年にカバー曲『涙の太陽』で歌手活動をスタートするんですけど、当時はCDを初めて出すのがデビューって解釈があったので、私のアイドルデビューは89年なんです。

――当時は、その瞳に1億円の保険がかけられたことがすごく話題に。でも、瞳よりも“美脚”のほうに目がいってしまいました。

田中 世の中の9割の人が、そうみたいですよ(笑)。インタビューでは大抵「(保険をかけたのは)脚ですよね」って言われるんですよ。

――でしょうね。当時は田中さんをテレビで見ない日がないくらいでした。

田中 睡眠時間も1週間で10時間くらい。家に帰って来てもシャワーを浴びてまた、すぐ出るみたいな(笑)。収録も一日で8本から、多い日で11本入っていました。だから、ダブル・ブッキングなんて当たり前。時間がなくて、移動でヘリコプターを使ったことも。

――なんともバブル時代を象徴する話ですね。

田中 石原プロさんの『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(テレビ朝日系)という刑事ドラマに出演させてもらったときは、ドラマの私の出演シーンの撮影が終了した記念で、三菱のエクリプスという車をいただきました。

――バブル時代とはいえ、さすが石原プロ。スケールが違いますね。バブルといえばディスコですが。

田中 あの頃、皆さんが抱く私のイメージは、夜な夜な六本木で遊んでるって感じでしたけど、ディスコにはほとんど行かなかったですね。というか、忙し過ぎて行く時間がなかったんですね。本来はキャンプとかアウトドアが好きなのに、まったく違う、真逆のイメージが独り歩きしてしまって。このギャップに、すごく苦しみましたね。とあるテレビ局のプロデューサーからも“美奈子ちゃん、その年齢でワンレンボディコンみたいな格好で売り出すのは絶対失敗するよ”って言われて、すごくショックを受けて落ち込んだことがあって。そのプロデューサーを絶対見返してやるって思って、そこから本当、寝ずにガムシャラに仕事して……って感じでしたね。

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