■約30年に及ぶ乱終結の最大の功労者だった!

 両軍の軍勢の数について諸説があるが、前述の通り道灌は強敵である長尾景春の動きが気になるだけにむろん、全勢力を投入するわけにはいかなかったはず。葛城氏は戦死者の数から推して、豊島方がせいぜい四~五〇〇名、道灌側がこれを多少、上回る程度とする。これは当時の戦死率からして妥当で、東京の都心部を舞台にした有名な戦国合戦ではありながらも、軍勢の数はさほどではなかったようだ。

 こうした中、弟の平右衛門尉は討ち死にし、合戦に勝利した道灌は翌日、兄勘解由左衛門尉が逃げ帰った石神井城に押し寄せて城を囲んだ。

 結果、城方が一度は降伏したが、道灌はこれを偽装と見抜いて再び攻撃に転じ、勘解由左衛門尉は夜陰にまぎれて逃走。彼は翌年、道灌が武蔵国を離れた隙に前述の平塚城を拵えて籠城したが、道灌が戻ってくるとみるや、再び城を捨て、鎌倉時代以来の名門・豊島氏は滅亡した。

 一方、道灌は江古田原で勝利した翌月、崩壊した五十子陣を立て直すために北武蔵に進軍。長尾軍を用土原(埼玉県寄居町)の合戦で打ち破り、まさに八面六臂の活躍を見せた。

 景春はやむなく上野国に撤退。やがて道灌に勢力を一掃され、足利成氏の元に逃げ去ると、成氏と両上杉の和睦が成立。文明一四年(1482)、成氏は正式に幕府から赦免された。

 三〇年近くに及んだ享徳の大乱を終結させた功労者は、道灌をおいて他にはいなかったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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