■龍馬とともに襲われて二九歳の若さで死亡!

 さらに当時、大宰府にいた三条実美にも拝謁。その後、鹿児島に入り、西郷はもちろん、薩摩藩の国父である島津久光にも謁見した。

 中でも、その後の幕末の政局に重大な影響を与えたのが、四月二一日に「岩氏初めて面会」とあるくだり。岩氏というのは後の右大臣である岩倉具視だ。土佐勤王党のメンバーである大橋慎三が岩倉の元に通い、彼を紹介されたようだ。

 慎太郎が太宰府で三条実美に謁見した際、「誰か中興の業(維新の実現)を翼賛(助ける)する公卿はいないか」と尋ねられ、岩倉の名を出したといわれる。

 こうして慎太郎は十津川郷士とともにその日、岩倉に会った。『行行筆記』から慎太郎がその後も岩倉に会ったことが確認することができ、『岩倉具視日記』では六月二五日に慎太郎が龍馬を伴い、岩倉の閉居先を訪ねたことが分かる。岩倉は当時、失脚して岩倉村(京都市左京区)で閉居暮らしを続けていた。

 やがて岩倉は薩摩の大久保らとともに、朝廷から討幕の密勅を得るための密議を図る。結局は大政奉還が一足先に実現し、討幕が実現することはなかったものの、幕末を語るうえでは欠かすことができない話だ。

 岩倉は慎太郎に会ったからこそ、龍馬に会い、西郷、さらには大久保と知り合った。いわば、慎太郎が岩倉村で埋もれていた男を歴史の表舞台に引っ張り出す役目を果たしたとも言える。

 実際に明治後、岩倉は「よしみを三条公に通じ、交わりを西郷・木戸(長州藩士の桂小五郎)らに結びたるは中岡・坂本の二子の恵みなり」と述懐。

 だが、その年の一一月一五日、岩倉がいった「二子」はともに、京の近江屋で刺客に襲われ、重傷を負った慎太郎はその二日後、絶命した。まだ二九歳の若さだった。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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