■義仲軍の敗戦の理由は島を正面から攻めた点

 一方、平氏方は日蝕と分かり、混乱する源氏の軍船を尻目に鬨の声を上げて攻め立てたというのだ。

 だとすると、やはり日蝕が勝敗の明暗を分けたようにも映る。

 実際、平氏が当時、日宋貿易を独占し、中国から先進的な天文の知識を得ていた一方、源氏方は山国信州の武士が多かったため、日蝕を知らなかったともいわれる(片山亨「源平水島合戦と日蝕」『岡山経済』176号)。

 確かに山国の武士らがただでさえ不慣れな海戦の最中、空に突如、「黒い太陽」が現れれば、驚くどころか、恐怖に駆られて逃げ出すことも考えられ、合戦の勝敗に日蝕が無関係だったとは言いづらい。

 ただ、一方で、海戦に慣れた平氏の軍船は、それぞれ板を渡して互いにしっかり結びつけ、船上が平坦に保たれるように工夫されていたという。

 しかも、源氏方の軍勢は前述のように平氏の半数で、そうした悪条件に突如、日蝕が重なったことになる。

 だとすれば、日蝕が起きた際、すでに合戦の大勢は決し、これが追い打ちをかけたとは言えないか。

 義仲軍はこうして撤退せざるを得ず、平氏に巻き返しのチャンスが到来。事実、平氏は元暦二年(1185)二月、頼朝の軍勢に敗れるまで屋島の拠点を守り続けた。

 一方、義仲は水島の合戦に敗れたことから都で窮地に陥り、やがて頼朝が派遣した源義経(頼朝の異母弟)に宇治川で敗れ、近江で討ち死。

 義仲にとっても潮目を分ける合戦となったが、彼らは屋島攻撃のために水島に陣取り、島を正面から攻めようとしていたことにある。

 義経はこの一年半後、紀伊水道を渡海して阿波に上陸。背後から屋島を攻め、たちどころに平氏を壇ノ浦に追った。

 軍事的天才といわれる義経と義仲の器量の差というべきか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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