■野村“ID野球”も多くの名言

 球界の名選手にして名監督、野村克也さんが心不全で亡くなったのは2月11日だった。享年84。“ID野球”で知られるように、データ主義で“考える野球”を実践した野村さんは、多くの名言を遺した。

「自己を過大評価した瞬間から、思考の硬直が始まる」というのも、その一つ。テレビ朝日系の野球中継で共演した野球評論家の関本四十四氏が懐かしむ。

「野球談議が盛り上がると、ノムさんは絶対に止めないんですよ。でも、話が面白くて、飽きさせない。夜中の3時になってたことも」

 常に野球について考え、データを徹底的に分析することが、選手としても指導者としても、輝かしい実績につながったのだろう。V9時代の巨人に在籍していた関本氏は、こんな秘話を明かす。

「巨人は67年以降、日本シリーズで毎年のように対戦する阪急相手に手こずっていました。あるとき巨人の森祇晶(当時は昌彦)さんが、同じ捕手で南海のノムさんを訪ねたんです。阪急の情報を聞き出すためだったんですが、情報交換もできるからノムさんは大歓迎。結局、巨人は阪急に一度も日本一の座を渡さなかったんですから、ノムさんの情報が、いかに的確だったか、分かりますよ」

 俳優の渡哲也さんが肺炎で亡くなったのは、8月10日だった。享年78。

「毎年恒例だった石和温泉での石原プロの忘年会でのこと。渡さんは、いつも“1年分飲むぞ〜! 騒ぐぞ〜!”と、笑顔で声を張り上げていました。その忘年会は、裕次郎さんが亡くなったあとも何年も続けられました。私たち取材陣にも“お年玉”が出るので、うれしかったものです」と語るのは、芸能レポーターの川内天子氏だ。

「一方で、裕次郎さんの法事のときは厳しい表情で臨んでいて、一瞬たりとも笑顔を見せずに執り行っていました」(前同)

 スターとして栄光をつかんだ反面、生涯の兄貴分である裕次郎の早すぎる死、自身のたび重なる闘病、石原プロの経営難と人一倍、苦難も多かった渡さんは、こんな言葉を遺している。

「耐えることが人生」

『大都会』(日本テレビ系)や『西部警察』(テレビ朝日系)で、男の悲哀を背中で表現した俳優ならではの名言である。

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