■攘夷の巨魁のキャラを演じ続けていたのか!?

 その後、斉昭はこうした歴史の転換期に幕府の海防参与に任命されて幕政に参画。一三代将軍だった家定の継嗣問題にまで首を突っ込み、自身の七男である一橋慶喜を次期将軍に擁立しようと画策したが、時の大老である井伊直弼に政争で敗れて蟄居処分となった。

 そして、これに反発した水戸藩士らがやがて、桜田門外で直弼を討ったものの、斉昭は同じ安政七年(1860)八月一五日、月見の宴の最中に心筋梗塞の発作を起こして厠の中で倒れ、蟄居が解かれることがないままに死去。

 むろん、将軍継嗣問題などの心労がたたったのだろう。

 その諡号は彼の生涯に相応しい「烈公」であり、攘夷を貫いたとされる思想がここにきて、徐々に見直されつつある。

 茨城県立歴史館の特任研究員である永井博氏が一昨年に出版した『徳川斉昭 不確実な時代に生きて』(山川出版社)に、斉昭が福井藩主の松平慶永(春嶽)に宛てた手紙が掲載され、意外な実像が浮き彫りになったためだ。

 同書によれば、斉昭はこの手紙に「とても攘夷など行われ候事は出来がたく、ぜひ交易和親の道、相開くべく(中略)攘夷之巨魁にてこれまで世を渡り候ゆえ、死ぬまで此説は替えぬ心得なり」と記述。著者である永井氏は斉昭が「攘夷の巨魁」のイメージを生涯、守り続けるつもりがあったとする一方で、現実的にはこれが不可能であると理解していたと主張している。

 実際、斉昭はペリーの来航に際し、阿部老中に前述の慎重論を展開。そうしたことも加味すれば、過激な攘夷論者とされた彼にも、沸騰する時代の風潮に乗らざるをえなかった面もあったのかもしれない。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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