念仏の始祖と称される伝説の僧侶、空也上人に「皇室が活動支援」説!の画像
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 すねが剥き出しの粗末な僧衣を身につけ、胸に金鼓を下げて右手に撞木を握り、左手に鹿の角の杖を持つ――。

 京都市東山区の六波羅蜜寺が所蔵する空也上人像の特徴を、歴史の教科書などで見て覚えている読者も少なくないのではないだろうか。

 中でもその口から出ている六体の阿弥陀如来が非常に特徴的で、当時はまだ、念仏を唱えれば極楽浄土に行くことができるという思想が広まっていなかった。

 空也は法然と親鸞が浄土宗と浄土真宗を開く二〇〇年前に市聖とも呼ばれ、『方丈記』で知られる鴨長明が「我が国の念仏の祖師と申すべし」(『発心集』)と評したように、南無阿弥陀仏の信仰を広めた重要な人物である。

 ただ、「空也」の読み方については、一般的な「くうや」の他にも「こうや」という説があるなど、その実像は今なお多くの謎に包まれている。

 実際、彼に関する史料は少なく、その没後に平安時代の貴族である源為憲が記した『空也上人誄』に「これ天禄三年(972)九月十一日、空也上人、東山の西光寺に没せり」と書かれた一方、末尾に行年七〇とあることから延喜三年(903)生まれと分かる程度。

 この伝記には「上人、父母をあらわさず、郷土を説くこともなし」とも書かれ、出自や素性もはっきりしないものの、「有識の者あるいはいわく、その先は皇派に出ずる」と続く。

 当時が醍醐天皇の御代だったことから、その落胤ともされ、素性が謎の偉人はむろん、えてして皇室出身という尾ひれがつきがちではあるものの、空也の場合はあながち、そうでもないかもしれない。

 まず、ボロを纏って市井を練り歩いたとされるように、自身が皇子であると知られた場合は天皇の尊厳に関わると考え、父母や郷土については一切、他人に明かさなかった可能性もある。

 また、空也は伝記に「少壮の日、優う婆ば塞そくをもって五畿七道をめぐり」と書かれているように、一〇代の頃、在家の信者として諸国を回り、今でいう“インフラ整備”に奔走していた。

 人馬がまともに通ることもできないような道路の石を鋤で削り、干害に苦しむ地方では、杖を使って水脈を探り当てた一方、荒野に捨てられた遺骨を拾い集めては焼き、南無阿弥陀仏の名号を唱えて供養したという。

 当然のことながら、こうした活動には現実問題として“金”がかかってくる。

 だとすれば、空也の勧進活動によって、彼のシンパが協力した可能性も想定される一方、皇室が裏で支援していた可能性はないのだろうか。

 そもそも一〇代という若さで社会貢献事業に目を向けた理由はまさに、一国の政治を司る皇子という立場にあったからではないだろうか。

 そんな彼は二〇代の頃に尾張国に至り、国分寺で出家して沙弥(正式に僧となる前の見習い)となったあと、播磨や南海の孤島(徳島県阿南市に属する伊島とされる)、奥州で修行を積み、天慶元年(938)、三六歳で京の都に戻った。

 当時は関東で平将門が、四国で藤原純友がそれぞれ反乱を起こして、世上が不安定化していた。

 空也はこうした中、京で念仏を唱え歩いて普及に努め、市場を監督する朝廷の役所近くに「市堂」を開基した。ちょうどこの頃から前述の市聖と呼ばれ始めた。

 むろん、市堂とはいっても小さなものだったと考えられる反面、朝廷も彼の活動を認めていたとみられ、前述の伝記にはこの頃の逸話がいくつか書かれている。

 この市場には当時、獄舎と刑場があった。刑にはこの時代、“見せしめ”目的との一面もあったことから、人が集まる市場はまさにうってつけの場所。

 空也が、そんな獄舎の門に卒塔婆一基を建立したところ、そこに刻まれた仏像が、満月のように輝いたばかりか、その傘の部分に吊り下げられた宝鐸(大型の風鈴)が風に鳴り出し、囚人らは皆、涙を流したという。

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