■上杉氏の支配が終わり北条氏らの版図が拡大

 その後、両軍の戦いが沈静化する中、北条早雲こと伊勢宗瑞が参陣したことで様相は一変。

 早雲はかつて、出自不明の浪人者といわれたが、幕府政所執事の伊勢一族出身が通説になりつつある武将で、縁戚関係にあった駿河の今川氏の内紛を鎮めると、前述の政知の死後、公方の座を力尽くで奪い取った足利茶々丸を追い、伊豆国を手に入れた。

 一方、明応三年(1494)には顕定が攻勢を強めて武蔵から相模に進軍し、扇谷方の玉縄要害(鎌倉市、藤沢市)を攻略。

 窮地に陥った定正が早雲に援軍を要請し、彼は見事に山内勢を相模から追い払うと、この乱に乗じて小田原城を手に入れ、北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏と区別して後北条氏と呼ばれる)の相模及び、武蔵に進出を始めた。

 だが、定正はその余勢を駆って早雲とともに武蔵の北部に攻め入ったものの、荒川の直前で落馬して急死し、扇谷家の家督を甥の朝良が継承。とはいえ、定正が急死した影響は大きかったようだ。

 扇谷勢は早雲の甥だった今川氏親の参戦もあり、今川と北条の連合軍とともに立河原(立川市)で山内勢を破ったことはあったものの、その後の戦いで相模国の守護代級の武将が討ち死にし、朝良は永正三年(1506)三月、川越城を山内勢に包囲されて降服。

 顕定は朝良を隠居させ、名代を立てて扇谷家をコントロールしようとしたが、その陣営の武将らの反対に遭い、彼の身柄を武蔵の須賀谷を移すだけにとどまり、一九年に及ぶ乱はこうして幕を閉じた。

 と同時に、関東では新たな争乱の幕が上がり、早雲が長尾為景(謙信の父)や前述の景春らと結ぶと、なおも山内勢と戦い、北条氏が相模から武蔵、さらには北関東に版図を拡大。

 天文一五年(1546)、扇谷家は北条氏に滅ぼされ、山内家が関東管領職と家督を前述の通り、越後の謙信に譲ると、争乱は彼と北条氏康(早雲の嫡孫)の代に引き継がれた――。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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