「いい国作ろう鎌倉幕府」

 1192年(建久三年)七月に源頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府が誕生した――という説が見直されて久しい。

「幕府」はそもそも、武官が陣所に幕を張って帷幄(本営)の幹部らと戦略を練ったことに由来し、征夷大将軍が開くものとされるようになったのは三代将軍である源実朝以降のこと。

 頼朝の嫡男である頼家は父の死後、すぐに跡を継いで鎌倉殿となったが、将軍に補任されたのは二年後で、当時はまだ、「将軍=鎌倉殿」という考えが成立していなかったからだ。

 したがって、幕府の成立年代を巡り、これまでに(1)頼朝が朝廷から「一〇月宣旨」で東国の支配権を与えられた「1183年(寿永二年)」、(2)「文治の勅許」で守護地頭が設置された「1185(文治元年)」などの説が提唱されてきた。

 だが、近年は守護地頭が文治元年に設置されたという常識も覆りつつある。

 いったい、なぜか。まずは通説に基づき、守護地頭の制度が誕生した経緯を振り返りたい。

 守護地頭は幕府の基本で、それまで公卿らに荘官職を与えられて土地(所領)を支配していた武士が、その棟梁である「鎌倉殿」から直接、地頭職に任じられた意味は非常に大きい。

 というのは彼ら御家人が、鎌倉殿に土地を安堵(地頭補任)される代わりに、「いざ鎌倉!」とばかりにその召集に応じて武力奉仕するようになったからだ。

 一方、文治元年三月二四日に平家一門が壇浦で滅んだいわゆる源平合戦の治承寿永の内乱で、源義経が名を挙げて後白河法皇に信任されると、頼朝は次第に京にいた弟を警戒。

 かねて頼朝と険悪だった叔父の源行家が謀叛を企てたことから事態が急転し、義経はこれを制止しようとしたものの抑えきることができず、九条兼実の日記である『玉葉』によると、〈義経・行家同心し、鎌倉に反す〉という噂が流れるようになった。

 さらに、〈頼朝がために生涯を失くし、宿意(恨み)を結ぶ輩〉(『玉葉』)らが二人の周辺に集まり、義経はこうして反・頼朝陣営に抱き込まれる形で挙兵。

 頼朝も二人を討つべく、一〇月に兵を率いて鎌倉を発ち、翌月に黄瀬川(静岡県清水町)に入り、京の事情を探るために逗留した。

 かたや、義経と行家はこの三日後に京を発ち、その後に大物浜(兵庫県尼崎市)から船に乗って九州に向けて出発。

「九州と四国の住人は両名の下知に従うように」という院庁下文を携えていたからで、後白河法皇が義経と行家を支持した形だったが、船は暴風雨で難破し、この知らせを黄瀬川で耳にした頼朝は鎌倉に戻った。

 一方、義経は頼朝の探索の目を逃れ、かつて世話になった奥州平泉に逃げ込んだが、行家は翌年、鎌倉勢の武士に捕らえられて斬首され、二人の計画はあえなく頓挫。

 思いも寄らない形で弟らの企てを阻むことに成功した頼朝は朝廷に働き掛け、彼らを追討する大義名分を得ようとし、舅の北条時政を使者に選んだ。

 当然、後白河法皇や院の近臣らは院庁下文まで与えた義経の挙兵が失敗したうえ、頼朝の代官として時政が乗り込んできたことから戦々恐々。

 前述の『玉葉』によれば、時政にあった公卿の吉田経房は、彼が朝廷に重大なことを提案してくるのではないかと警戒したという。

 実際、時政はこのとき、五畿、山陰、山陽、南海、西海諸国に地頭の設置を求め、それらから反別五升の兵粮米の徴収などを要請。

 義経を追討する費用に充てるためで、頼朝は法皇が義経に加担した弱みを握り、彼を追討する名目で地頭の設置を求めたわけだ。

 法皇は結果、頼朝に御家人らを守護や地頭の職に補任する権限を与えた(文治の勅許)。

 だが、このときに設置されたのは国単位の地頭。すなわち「国地頭」で、荘園単位や国こ く衙が (地方の国に設置された政庁)領の一部に任じられる地頭ではなかったということが次第に明らかになった。

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