■鎌倉幕府の成立の年は1190年説が有力!?

 時政は五畿内以下、七か国の国地頭に任じられ、その諸国から反別五升の兵粮米の他、兵を募ることができ、彼らを処罰する権限があった。

 また、播磨と美作両国の国地頭には有力御家人の梶原景時が、備前、備中、備後は同じく土肥実平が、それぞれ任じられた。

 だが、歴史学者の元木泰雄氏が著書の『源頼朝』で彼ら国地頭を「軍政官」と呼んだ通り、これはあくまで、義経追討という軍事オプションの進行途上の臨時職。

 しかも、頼朝は国地頭の設置を認めさせながらも、院庁や朝廷を憚って時政に兵粮米の徴収を断念するように求めた。

 なぜなら、税の徴収(増税)には在地の反発があり、実際に未納が発生していたからだ。

 兵粮米という名の増税は農民の生産意欲に関係し、それはすなわち、院や公卿らの荘園からの年貢取り立てにも大きく関係してくる。

 ところが、時政は頼朝の意に反し、軍政官の当然の権利として兵粮米の徴収を画策。

 頼朝は一人で暴走する彼を鎌倉に召喚し、国地頭制度はこうして消滅した。

 では、幕府の根幹となる守護地頭制はいったい、いつ発足したのか。

 実は、これがまた、なかなか難しい。ただ、荘園や国衙領の一部を単位とする地頭は平氏が滅んだ頃から現れ、やはり文治元年が起点と見ていい。

 また、「大犯三ケ条」(国内の武士の大番催促と謀叛人、殺害人の検断)を主に職とする守護は建久三年(一一九二)以降、登場するようだ。

 では、鎌倉幕府の成立はいつと見るべきか。

 これもまた、はっきりとは定まらないものの、頼朝が治承寿永の内乱の勝利者として上洛し、右近衛大将(武官)になった建久元年(1190)説が最も有力ではないだろうか。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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