後醍醐天皇を支えた屈指の忠臣!“戦略家”楠木正成「悪党説の真相」の画像
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 楠木正成といえば、後醍醐天皇の討幕運動を支え、建武の新政を実現した忠臣。足利尊氏が天皇に叛いたあとも忠誠を貫き、明治以降に天皇を中心とした国家が誕生すると、国民的ヒーローとなった。

 だが、一方で素性は謎に包まれ、ここにきて意外な一面も明らかになってきた――。

 正成は父が楠木正遠とされ、幼名は多聞丸。河内国金剛山の麓に本拠を置いた。

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇の呼び掛けに応じて赤坂城(大阪府千早赤阪村)で挙兵し、皇子の尊良親王や護良親王らとともに、立て籠もった。

 赤坂城は幕府軍の猛攻によって陥落したものの、護良親王がその後に吉野で挙兵したことから正成は千早城(同)で再挙し、畿内で再び反幕運動を展開。

 幕府は大軍を西下させたが、千早城が猛攻に耐えながら時間を稼ぐ間に、一度は挙兵に失敗して隠岐で幽閉されていた後醍醐天皇が脱出した。その後、京都の六波羅探題が元弘三年五月に尊氏らに攻め落とされると、新田義貞が鎌倉に攻め入って北条高時を自刃させて幕府は滅亡。

 千早城に幕府軍を釘づけにした正成の功は大きく、翌年に従五位下検非違使から左衛門少尉に任命されると、建武の新政下で河内と摂津の守護となり、武者所に出仕するとともに恩賞方、記録所の寄人、雑訴決断所の奉行も兼ねた。

 むろん、天皇の信任も厚く、京都の二条富小路に屋敷を構えて身辺を警護。

 だが、翌建武二年に尊氏が天皇に叛き、正成は奥州から急行した北畠顕家軍とともに一度は京から足利勢を追い払ったが、九州から東上した足利勢とこの翌年、兵庫湊川(神戸市)で激戦を繰り広げた末に敗れ、弟の正季とともに自刃した――。

 そんな正成の素性はこれまで、「河内の悪党」と評されてきた。

 悪党は鎌倉幕府から南北朝時代にかけ、荘園領主や地頭に反抗した集団。権力に逆らう輩とされ、「河内の悪党」である正成を輩出した楠木家はそれゆえ、幕府には服さない、“非御家人”とされてきた。

 ところが、元関白の二条道平が書いた『後光明照院関白記』には、正成が千早城で幕府の大軍を迎え討った当時、都で次のような落首が流行ったとある。〈くすの木の(楠木の) ねハかまくらに(根は鎌倉に)成るものを 枝をきりにと 何の出るらん〉

 楠木家の根、つまり素性は鎌倉にあるのに、幕府軍はなぜ、その枝である楠木軍を切りにわざわざ河内までやって来たのかという意味だ。

 この落首から、楠木家が鎌倉出身、すなわち幕府の御家人ではないかという疑いが生じ、しかも、「根は鎌倉」というくだりからは、一般のそれよりも深い鎌倉(北条政権)との関係も窺える。

 それもそのはずで、昨今は楠木氏は北条得宗家の被官(家臣)だったといわれるようになった。

 得宗家が執権として幕府の政治を動かした北条宗家を意味することから楠木家は幕府に逆らう悪党どころか、権力の中枢の一員だったことになる。

 その得宗家の勢力が拡大するにつれ、御家人の中にもこれに仕える者が現れたことから、楠木家も宗家に仕えるようになったのだろう。

 また、正成が金剛山の麓で生まれたことは間違いがないとしても、その周辺にはそもそも「楠木」という地名はなく、一族は別の地方から河内に移住してきた可能性も生じた。

 そこで、『楠木正成』の著者である歴史学者の新井孝重氏は、河内は北条得宗家の支配下にあり、楠木はここに進駐した一族とする説を提唱。

 正成と関係の深い観心寺(大阪府河内長野市)の荘園の地頭(代官)は、幕府の御家人である安達氏で、霜月騒動で北条得宗家に滅ぼされ、安達領だった観心寺荘が得宗領となり、その家臣として楠木氏が送り込まれたという。

 実際、楠木一族が北条得宗家の家臣だったという説を裏づける史料もある。

 江戸時代の著名な儒学者である林羅山編述の『鎌倉将軍家譜』によると、正成が得宗家当主の北条高時から保田荘司の追討を命じられているからだ。

 その荘園は紀伊国湯浅にあり、湯浅一族が地頭に任じられていたが、何かの事情で幕府に召し上げられ、正成が高時の命で土地を差し押さえたのだろう。

 正成が千早城で再起した際、まず赤坂城に入っていた湯浅一族と戦っているあたり、『鎌倉将軍家譜』の内容を裏づけているとも言える。

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