「世界三大美女」の女流歌人・小野小町「誰も知らない原点と実像」の画像
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「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 平安時代の歌人で六歌仙の一人である小野小町は、自身が老いる儚さを、このように詠んだ。

 彼女は日本が誇る絶世の美女で知られ、エジプトのクレオパトラ、中国の楊貴妃とともに「世界三大美女」と評される。

 だが、美貌を誇るあまり、言い寄る男を拒み続け、貴族である深草の少将には百夜、自らの元に通い続けることを要求。彼は毎夜、険しい山道を越えて彼女の元に通ったものの、ちょうど百日目の夜、身も心も疲れ果て思いを成就させる前にこの世を去ってしまった。

 彼女はそんな高慢な性格が災いしてか、晩年は恵まれず、流浪生活を余儀なくされて落ちぶれ、その遺骸は野ざらしとなった――。

 むろん、以上のエピソードは、その大半が能などで語られるフィクション。鎌倉時代末期の有名な随筆『徒然草』の作者である兼好法師は実際、〈小野小町がこと、極めて定かならず。衰えたるさまは『玉造』という文にみえたり〉とし、実像がはっきりしないと記している。

 当然、容貌も分からず、本当に絶世の美女だったのかは不明。はたして彼女はいったい、どんな女性だったのか。

 まず、美人といわれた理由については兼好法師が理由の一端を残している。

 前述の〈『玉造』という文〉は平安後期に成立した漢詩文の『玉造小町子盛衰書』のこと。ある美貌の女性の落魄が兼好法師と老女の問答形式で綴られ、この物語の主人公が小野小町と混同され、晩年に流浪生活を送ったという伝説のルーツもどうやら、ここにあるようだ。

 一方、「世界三大美人」と言われるようになったのは明治半ばで、富国強兵で国威発揚が叫ばれていた時代のこと。明治二一年(1888)に『読売新聞』の社説でクレオパトラや楊貴妃と並び称されたことを契機として、ナショナリズムの機運にも乗じて世界的美女に格上げされたものとみられる。

 では、その美貌を語る前にそもそも、彼女はいったい何者だったのだろうか。『古今和歌集』に一八首の和歌が掲載されていることを除けば、史実はほぼ確認することができない。

 ただ、その素性に迫る手掛かりは残されている。室町時代に編纂された系図集の『尊卑分脈』の「小野氏系図」には、平安時代の初期の公卿で文人の小野篁の孫として「女子小町」の名前が記されている。

 その小野氏は敏達天皇の子孫とされるものの、実際はそれよりも歴史が古く、継体天皇の御代にヤマト政権の有力な豪族として知られた和邇氏の出身。大和添上郡に本拠があり、山城愛宕郡、宇治郡の小野郷、さらに近江滋賀郡小野村にも勢力を伸ばし、これらが一族発祥の地とされている。

 中でも、推古天皇の時代に遣隋使となった小野妹子が有名だ。

 篁は学者や歌人としても有名だが、非常にあくの強い人物だったようで、遣唐使に任命された際にはトラブルを起こして乗船を拒否して隠岐に配流されており、その没年は仁寿二年(852)。

 一方、小町は生没年が不明ながら、彼女が交流した人物のそれから推測するに九世紀半ば頃とみられ、篁とほぼ世代が重なってしまう。

 とはいえ、彼女が小野一族でなかったとまではさすがに言い切れず、古代の名族の子孫だったことは確かだろう。

 一方、『古今和歌集目録』に彼女が「出羽国郡司の女」だったと記されていることから秋田の出身とし、県のブランド米や新幹線の名前にも周知のように「こまち」が使われている。

 だが、郡司は古代に全国で割拠していた地方の豪族に与えられたポストのことで、中央の貴族だった小野一族がそうだったとは正直、考えにくい。

 ただ、一方で、小野一族と出羽の関係は深く、出羽守や鎮守府将軍に任じられた者もいる。

 したがって、小町自身は出羽国郡司の娘ではなかったものの、母がそうだった可能性はある。

 だとすると、生まれを小野氏の本拠だった山城や近江と考えなければならない。

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