■この世を去る直前まで大将軍であり続けた!
田村麻呂は翌年一月、奥羽支配の前線拠点となる胆沢城(岩手県水沢市)造営のために奥州に下向。
蝦夷の族長だった阿弖流為と母礼らが四月、五〇〇余人を従えて田村麻呂に降ったという知らせが朝廷に届いた。
阿弖流為らは田村麻呂による和睦の申し入れを受けただけで、必ずしも降伏したわけではないとの説もあるが、このことからも三度目の遠征で蝦夷が帰服の意向を示したことは確かだろう。
その二人の身柄は七月に京に送られ、田村麻呂は『日本紀略』によると、阿弖流為らの助命と帰還を進言したが、公卿たちが「奥地に還すのは虎を養い、患いを残すだけだ」といって反対。
二人を河内国で斬ったことで、逆に遺恨を残す結果となった。
というのも、田村麻呂は東北支配のため、胆沢城の北に志し波は城(岩手県盛岡市)を造営。
延暦二三年(804)に四度目の東北遠征が企画され、またしても征夷大将軍に任命されたからだ。
だが、征夷が農民を疲弊させていたという反対意見が朝廷内で起こったことで計画は次の遠征軍を率いた文屋綿麻呂に引き継がれ、光仁二年(811)の出兵で長い蝦夷との戦争が終結(三八年戦争)。
田村麻呂は同年五月にこの世を去った。
なお、征夷大将軍はあくまで臨時職で、田村麻呂は二度目の征夷後もこれを返上せず、亡くなる前年頃までこのポストにあり続けた。
理由は分からないが、将軍が陣営に幕を張り、幹部らと戦術を練るところを「幕府」と呼ぶことから将軍であり続けた田村麻呂はある意味、日本で初めて幕府を開いた武将とも言えるのかもしれない。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。