■高校2年で“二刀流”の契機が!

 その後、高校2年時に投球に欠かせない股関節の骨端線を損傷して、投手としての評価は下降線に。だが、結果的には、このケガの功名が“二刀流”の契機ともなっていく。

「投げられない時期を打撃練習に費やしていたら、今度は、そっちが怪物級になった。この頃はスカウト陣の評価も、もっぱら打者としてのものでした。それが高3夏の県大会の準決勝で、160キロを記録したことで一変しました」(同)

 当の大谷自身も、この時期と前後して「投手として」から、「求められるところで」と徐々に変遷。“世界”を現実的に意識した発言が増えていったという。

「彼は学校の授業では日本史、とりわけ幕末維新の時期が好きだと話してました。高卒後すぐのMLB志望も、日本のNPBがけっして嫌なわけではなく、それが前例のない挑戦だったから。いわば、彼の持つ開拓者精神がそうさせたんでしょう。もし、あそこで日本ハム球団が“二刀流”という新しい価値観を提示していなかったら、今の彼は、おそらくなかったんじゃないかなと」(同)

 これについては、前出の福島氏も、こう話す。

「もし日本ハムでの実績がなければ、MLBのどの球団も、彼の“二刀流”を認めることはなかったでしょう。その点でも、日本ハム球団が提示した新たな選択肢が、彼の未来を切り拓ひ らいたと言ってもいい」

 その日本ハムでも、大谷は高卒新人らしからぬ大器の片鱗を見せつける。

「プロ初登板・初先発となった2013年5月23日のヤクルト戦で、かの松坂大輔の初登板における155キロの記録を軽々と超える157キロをマーク。その後6月1日には初勝利、7月10日に初アーチを記録。高卒新人としては阪神・江夏豊以来、46年ぶりの快挙でした」(スポーツ紙デスク)

 随所で覚醒の予兆を感じさせた“怪物”は、その後も順調にスケールアップ。

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