■傲岸不遜な性格により周囲の反感を買った!?

 不愛想で合理主義者の益次郎には言葉を選ばない面があり、それが周囲の恨みを買い、海江田ばかりか、西郷との不仲説も流れた。

 ただ、戦略家としての目は確かだったようで、上野戦争当日、新政府軍が予想に反して彰義隊の抗戦に苦しんだため、必ず勝つと大言壮語していた益次郎を参謀らが糾弾しようとしたところ、江戸城の富士見櫓で戦況を見守っていた彼は懐中から時計を出し、こう答えた。

「心配には及びますまい。夕方には戦の始末がつくでしょう。もう少しお待ちなさい」

 すると、しばらくして上野方面が猛火に包まれだしたという。

 上野戦争で彼の兵学者の地位は固まり、その作戦で戊辰戦争そのものも新政府軍の勝利に終わった。

 彼は戊辰戦没者のための招魂場(のちの靖國神社)建立にも関わり、その境内に銅像が立てられ、戦後の論功行賞で西郷の二〇〇〇石に次ぐ一五〇〇石の永世禄高を賜った。

 ところが、彼が国民皆兵による国軍創設を目指し、拠点を大阪に構えるため、明治二年九月四日に京の三条木屋町の旅宿にいたところ、同じ長州の不平士族ら八名に襲われた。

 同席していた者が本人と間違われ、かつ、益次郎が斬られてそのまま襖を押し倒す形で押入れの中に潜むことができたために命拾いしたものの、重傷を負った。

 身柄は大阪の病院に運ばれ、右大腿部の切断が必要とされたが、手遅れで、一一月五日に敗血症で他界。

 実行犯が殺害理由に国民皆兵で武士の特権を剝奪しようとしたことなどを挙げた一方、木戸孝允は海江田が裏で不平士族を扇動していたと見ている。その裏づけはないものの、少なくとも益次郎の傲岸不遜な性格が、必要以上に彼らの不満を煽ったことは考えられる。

 才能ある人物にありがちな落とし穴と言えるのではないか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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