■小説を書く前に辞表を提出!
けれど、ダンスの講師をしていた30歳のとき、生徒に夢を諦めるなという話をしたら“翔吾君も夢を諦めてるくせに”と言われたんです。それがきっかけになり、すぐに辞表を出しました。まだ小説も書いていないのに、ですよ。狂気の沙汰としか言いようがない(笑)。その時点で一番近い締め切りの文学賞を探したら、5日後くらいのものがあった。
その5日間で書けなかったら、小説家としてはやっていけないんだと自分を追いつめて、5日間はほぼ徹夜して原稿用紙で100枚くらいを書き上げました。それが見事に受賞して、次に応募した作品も受賞しました。たぶん天才だったんでしょうね(笑)」と振り返った。
それを受けて川西氏もデビュー以前のエピソードを披露。「広島でバンドをやっていたけど、限界を感じて、ドラムを辞めて電気設備の設計事務所に就職しました。図面を引いて先輩に見せると、これは完璧だからダメだと。なぜかというと、それを持って相手の会社に行ったときに、相手が付け入る隙を見せなきゃいけないと。めんどくさいなと思ったけど、言うとおりにちょっとずつ間違えたものを持っていったんです。案の定、ここは間違ってるよとか指摘される。
そんなことをしているうちに、職場で10メートル先に座っている50歳くらいの課長を見ながら、10メートル進むのにあと30年かかるのかと思ったらばからしくなった。やっぱり俺はドラムを叩かないといけない、全国に俺を待ってくれている人がいる、と。まあ、思い込みなんですけど(笑)。でも、思い込みって大事ですよ」。
その言葉に、会場を埋めたファンが大きくうなずく。
【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」
- 【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」(1)今村「池波正太郎先生の『真田太平記』がきっかけで時代物にはまった。自分で書いてみようかと思ったのが中学生の頃」川西「僕は小学生の卒業アルバムに将来なりたいものは“アメリカ人”と書いてました(笑)」
- 川西「奥田民生にメールで歌詞を送ったら、次の日には曲が付いて返ってきた」今村「今日もここに来る電車で原稿用紙4枚書いてきたし、タクシーで移動するときも書きます」【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」(2)
- 川西「撮り直しは最長でも3回」今村「1日あたりの最高枚数は110枚」【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」(3)
- 川西「お互いに、やっていることは違うけど、僕なら音楽、今村先生なら本を通じて、何かを発信しているというのは一緒だと思います」【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」(4)
- 今村「一番僕らしいものを書きたい、消えても後悔しないものを書きたいと思ったんです」【独占取材】ロックバンド『ユニコーン』川西幸一と直木賞作家・今村翔吾「夢の対談」(5)