■テレビ局からお呼びがかからない日々

 劇場ではウケるが、テレビ局からはお呼びがかからない日々が続いた。

「業務スーパーで、もやしを2キロ買って、毎日、もやし丼を食べていたそうです。幸い、伊達の実家から米が送られてくるから助かったとか」(芸能記者)

 当時の心境は、どんなものだったのだろうか。

「富澤は、バラエティ番組を見るたび“爆弾が落ちろ”と、つぶやいていたとか。“今、テレビに出ている芸人が全員死ねば、俺らが出られるんじゃないか?”と、本気で思い詰めていたそうです」(前同)

 一方の伊達は、どうか。

「“もし、そうなっても、俺らの出番はないよ”と心の中で思っていたそう。よく気分転換に、自転車を2人乗りして隣り町まで行ったと語っています。“うまいコロッケ屋を見つけたから行ってみようぜ”などと、誘っていたとか」(同)

 29歳のとき、「この世界に誘った責任」を感じた富澤は、解散を持ちかけた。

「彼は“死んでお詫びするしかないのか”と、自殺まで考えていたと、後に語っています」(同)

 終わりの見えない地獄の日々。伊達は、こう返した。

「彼は“まだ解散するまでの挑戦をしていない。そこまで俺たち、立っていないんじゃないか”と。そして、2名が30歳を迎える残り1年をタイムリミットとして、“どんなライブにも出よう”と決意したそうです。年間180本のライブに出演して、漫才の腕を磨き続けました」(同)

 勝負の年と定めた2005年、当時、人気絶頂のネタ番組『エンタの神様』(日本テレビ系)に出演を果たす。そこから、彼らの快進撃が始まった。

「都内の劇場を片っ端から番組スタッフが見て、無名でも面白い芸人を発掘。その中で、数々の名番組を手がけた五味一男プロデューサーの目に止まったのが彼らだった。五味氏は“なんで君たちは埋もれていたのか!”と驚いたと語っています」(テレビ局関係者)

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